教会報から
復活祭を迎えて
上福岡教会担当司祭
グエン・ゴン・ホアン神父
春の風が快い季節となりました。上福岡教会共同体の皆さん、いかがお過ごしでしょうか。皆さんにとって、この四旬節の間は、祈りと節制の期間だったと思います。
さて、私たちは主イエスの「ご復活」を迎えますが、聖書によれば、イエス様の復活の現場を目撃した人はいませんでした。しかし、復活の最初の証人は、数人の女性たちでした。日曜日の早朝、墓に駆けつけ、墓が空っぽになっているのを見つけ、そこで天使から「イエスは復活された」と告げられたのです。しかし、当時のユダヤ人社会では女性の証言は無効でした。
もし聖書がこの話をでっちあげたのなら、これは実に愚かな創作と言わざるを得ません。より注目すべき事は、婦人たちの証言を聞いた弟子たちの反応と態度です。「そうか、やっぱり復活されたのだ」と喜ぶ代わりに、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)のです。
しかしながら、イエス様の最初の出現の場に居合わせなかったトマスは、「私はその手に釘の跡を見、指をそこに入れるまで信じない」と言いました。例の婦人たちも早朝に墓に行ったのは、「遺体に香料を塗るため」で、つまり彼女たちも復活を夢想だにしていなかったのです。同じ聖書の箇所によれば、イエス様は生前少なくとも3回は「復活」を予言していたのですから、弟子たちは復活を待ち構えているべきでした。しかし、彼らが復活を信じるには、どうしても復活したイエス様を自分の目で見る必要があったのです。つまり、彼らは決して「なんでも信じる」たぐいの人間ではなかったという事です。
パウロが、ギリシア文化の中心地アテネの広場でキリスト教の教えを説明したとき、聴衆は最初は好奇心から耳を傾けていたのですが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17:32)。復活はギリシア人にとって「馬鹿げたこと」だったのです。
イエス様の復活は、21世紀に生きる私たちは言うまでもなく、紀元1世紀を生きていた人達にも、非常に宗教心の篤かったユダヤ人にも、信じられない出来事だったのです。
しかし、イエス様のご復活は一つの所に留まりませんでした。多くの所で、多くの人々や弟子達によって福音が述べ伝えられました。次第に多くの人びとがイエス様のご復活の体験・経験を通して、新たな信仰生活と新たな自分を活きる者となったのです。
現代の私たちも毎週日曜日、イエス様の「死と復活」のミサに与っています。つまり、私たちもイエス様の復活体験を通して活かされているという事です。目に見えないイエス様の死と復活の恵みに与る事が出来る事は私たちにとって大きな恵みです。この恵みを感謝しながら主のご復活を共に喜びましょう。アーメン。
2015復活祭号(2015年4月5日発行)より転載