カトリック上福岡教会

ルドビコ茨木について

カトリック上福岡教会の保護の聖人

カトリック上福岡教会の門柱には、小さな木彫りのご像が埋め込まれています。カトリック上福岡教会の保護の聖人「聖ルドビコ茨木」です(1982年・秩父教会の田中和一氏の作)。ご像は少年のすがたをしています。ルドビコ茨木とは、どのような人物だったのでしょうか。

「ルドビコさまは 十二才」

ルドビコさまは 十二才
耳をそがれて しばられて
歩む千キロ 雪の道
ちいさい足あと 血がにじむ(作詞・永井隆)

この詩に歌われているのが、ルドビコ茨木です。

1597年2月5日、長崎・西坂の丘(現在の長崎市西坂町)で、フランシスコ会の神父や、日本人の信徒など26名が、十字架につけられ、処刑されました。時の権力者、太閤・豊臣秀吉の命令によるものです。その中の1人が、ルドビコ茨木でした。26人中の最年少で、当時12歳。京都にあったフランシスコ会の修道院で、病人の世話にあたっていたといわれています。

「耳をそがれて しばられて」

当時、日本に滞在し、『日本史』などの著作で知られるイエズス会の神父、ルイス・フロイス(1532-1597)は、この事件について詳細に書き記し、ローマに報告しています。フロイスの報告書から、ルドビコ茨木の人物像に近づくことができます(以下の引用は、ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』結城了悟・訳、聖母の騎士社、1997による)。

ルドビコが捕らえられたときのことについて、フロイスは次のように記しています。役人は「この少年が年少だったので哀れんで命を救うために名簿に記入したくなかったが、少年は執ように懇願しつづけたので、その聖なる懇願により彼を名簿に記入した」(「あとがき」)。

1月3日、一行は、京都で左耳の一部を切り落とされ、見せしめのため、粗末な牛車に乗せられ、町中を引き廻されました。

「見物人を涙ぐませると同時に、皆を驚かせて、信心を起こさせたのは、修道者の同宿であった三人の少年を見ることであった。」(註:「三人の少年」とは、ルドビコ茨木と、聖アントニオ13歳、聖トマス小崎14歳のこと。)

「三人とも天使のような顔で喜び溢れ、後手に縛られ、耳を剃がれた時も傷痕の痛みをこらえ、また、流れる血にも驚かず静かに純心に『天にまします、めでたし』とその他の祈りを唱えていた。」(「第8章」)

「歩む千キロ 雪の道」

「ルドビコが牢にいた時、身分ある一人の異邦人(註:日本人のこと)が彼に近付き、もしキリシタンをやめれば釈放してやろうと勤めた。子供は答えて『貴方こそキリシタンになるべきです。救いのためには道は他にはありません』と言った。」

「この少年は、後でミヤコ(註:京都)から長崎への道では神を賛えるために表していた死ぬ覚悟に修道者さえ驚いていた。このすべてをフライ・フランシスコ・ブランコ(註:殉教者の1人)が道中、フライ・マルセロ神父に送った手紙に書いている。」(「第8章」)

一行は、見せしめのため、大阪と堺でも、同じように引きまわされました。堺を出発したのは、1月9日で、遠い道のりの末、長崎に到着したのは、2月5日です。道中は、雪や霜のため、たいへん苦難に満ちたものであったと、フロイスは記しています(「第13章」)。

唐津(現在の佐賀県唐津市)で26人は、長崎奉行・寺沢広高の弟、寺沢半三郎に迎えられました。

「この二十六人の下僕らの中に(略)十二歳の非常に朗らかな少年がいて、半三郎は彼に、『そなたの命は私の手中にある。もし私に仕える気があれば、そなたを助けよう』と言った。少年は答えて『自分の命はフライ・ペトロ(註:殉教者の1人)の決定に従います』と言った。」

「フライ・ペトロはそれを聞いて『彼がそなたの生命を救うとして、もしキリシタンとして生きることを許されるならば従ってもよい、と言いなさい』と告げた。しかし半三郎は『そうではない。キリシタンの教えを捨てるならばよい』と言ったので、子供は『そのような条件であるならば、生命を望みません。つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです』と答えた。」(「第14章」)

「ルドビコさまが にっこりと」

刑場に到着すると、一行は、十字架を見て歓喜したといいます。

「ルドビコは朗朗として自分の十字架がどこにあるのかと尋ねた。子供の背丈に合わせて十字架が準備されていた。十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った。」(「第16章」)

少年は「十字架につけられた時、意外な喜びを見せ、『パライソ(註:天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら信者未信者を問わず人々を驚かせた。そのことで彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていた。」(「第18章」)

「少年ルドビコは非常に喜び、一人の信者が彼に『間もなくパライソ(天国)に行くでしょう』と激励したので、勇躍するかのように十字架に縛られている体を上方に動かすが、手が縛られていたのでせめても指先を動かしていた。」(「第16章」)

刑の執行人は、各殉教者に2人つき、1人は左側から、もう1人は右側から槍を刺し、この2本の槍でほとんど全員が息絶えたといいます。

ルドビコさまが にっこりと
笑って 槍を受けたとき
西坂丘の 夕映えに
ほろりと散った 梅の花

1862年、教皇ピオ9世により、26名は聖人に列せられました。現在、長崎・西坂の地には、聖フィリポ教会と日本二十六聖人記念館が建てられています。


西坂の地に建つ二十六聖人記念碑。ブロンズ像は、舟越保武氏の作。右手奥に見えるのが、聖フィリポ教会。

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