カトリック上福岡教会

教会報から

「僕の宗教観」と、マレーシア旅行

Cさん(学生・男性)

まず初めに、この記事には場合によっては、気分を害してしまうような記述があるかもしれませんが、「まだまだ若いな」とご容赦ください。

キリスト教への反抗期

キリスト教徒として成長していく中で、僕はキリスト教への反抗期に入りました。「日曜日に皆が遊んでいる中、何故自分は教会なんかに行かねばならないのか。」そんな思いが強かったかもしれません。しかし、もう一つの理由として、「キリスト教の教えが分かりづらいこと」があったと思います。

キリスト教に反抗するなかで、キリスト教に対して批評する必要がありました。それにあたって僕が考えていたのは「宗教なんてモノがあるから、無駄な戦争が起きる。」ということです。実際の所、戦争を起こすために使われてしまっただけで、争いの本質的な理由ではなかったのかもしれませんが。それともう一つは、「キリストの教えを学ぶために、ミサに行く必要なんてない。ミサなんて要らない。」という事でした。また、一つ疑問が生まれました。「キリスト教にストーリーは必要だったのか」という事です。キリスト教の知識も全然十分ではないし、まして他の宗教の事はほとんどわかりませんが、キリスト教ほどストーリー性のある宗教はないのではないかと思います。

問題の解決

また、少し成長して、僕は反抗期に思っていた事について考え直し始めました。まず、短絡的に「宗教=戦争」という認識ではなく、「宗教の誤った解釈、都合の良い解釈が戦争に繋がる。宗教を信仰する者は、『自分の信仰・教えの理解がまだまだ浅い』と謙虚になり、他の宗教に出会えば教えの共通項の発見に喜び、また他宗教の良い教えがあれば新しい発見に喜び、違う宗教同士尊重し合わなければならない。『もし他宗教の教えに間違いがあると思ったとしたならば、それは自分の理解が浅いからそう思うのだ』と謙虚になり、決して優劣を付けようとしてはならない。戦争や人殺し支配を正当化するために宗教を使うなど、信仰を持ってないと同じである。」と考えるようになりました。

「ミサが必要ない」というのは、とても考えなしのアホな考えだったと思います。

ミサに行かず、聖書をひたすら読み込む人は、本当の意味で教えを理解できない気がします。なんとなくそう思うだけですが。「ミサでの儀式の中に、大切な教えがあり、その教えを体全体で感じ、受け入れる事が一つ大切なのかもしれない。」と思います。ミサや聖書によって、人の心に教えが宿り、日常生活(人との関わり)の中で、その教えが芽を出し育つ。ミサも一つ日常生活であるから、聖書を一人で家で読みふけってる人には、土に種が撒かれているだけで、ミサの中で聖書について学ぶ人には、土に種が撒かれて水を与えられている状態と言えるのかもしれません。

ストーリーの必要性について

日常生活が教えの肥やしになるのなら、聖書の中の人々の暮らしの中で行われている教えを眺める事は、教えが伝えられ、それが芽吹く瞬間を見ている事であり、それは教えを伝える上で大事なのだろうと思います。禅についての本など読んでみると、禅の教えが漢文で書いてあり、それを現代訳したものがあり、詳しい説明があります。この詳しい説明にあたるものが、キリスト教ではストーリーという事なのでしょう。キリスト教ってお洒落な感じがしますね。ですが、「昔と今では、環境も生活も大きく変わっていて、そのせいで教えの理解に苦労するのかもしれないな。」と思います。うまく昔の生活の中で生きている教えを、現代の生活に当てはめなければならないわけですから。

マレーシア旅行

話は少し変わりますが今年(2014)春にマレーシアに旅行に行ってきました。大学のマレーシア人留学生の友達に案内してもらったのですが、予想外に栄えていて、「日本と殆ど変らないな」って印象でした。「侮っていてすみません」って感じです。その友人の友達数人とジャングル・トレッキングに行ったのですが、向こうの人たちが、日本のアニメについて詳しくて、面白かったです。「写輪眼」、「ゴムゴムのぉ〜」、「第八門、開っ!」とか言っていました。そういうのがあると、「日本人で良かった」って思いますね。

マレーシアと言えば、イスラム教。マレーシアに行くまで、イスラム教なんてほとんど知らなかったので、イスラム教に直に触れるのはすごく新鮮でした。向こうでは基本的に車で移動していたのですが、イスラム教では毎日5回、最低でも3回のお祈りがあるので、お祈りの時間になるたび近場のモスクに立ち寄り、僕と日本人の友人の2人は車でお留守番でした。一度、英語で案内してもらって、色々説明を聞いたのですが、コーランは日常生活についての直接的な教えが多いようでした。神様は形のあるものではなく、その姿を表現する事は固く禁じられているそうです。日に5回のお祈りは、生活リズムを整える役割も担っていて、朝は多くの人が日の出時刻に起きています。2度寝はするみたいですが。

コーランでどんな教えが説かれているのかは知らないのですが、マレーシアはとても治安がよく、いじめなんかも、ほぼないそうです。そういえば、マレーシアの挨拶も特徴的ですね。手の甲にキスをしたり、握手だったり、ハグだったり、相手によって違いがあるみたいです。でも友達ならだれでもそういった挨拶をしていました。何だか温かくなる挨拶です。マレーシア人は不思議な温かさがあるなと感じました。その温かさが何故生まれるのか、いつかコーランを読んでみたいと思いました。

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2014復活祭号(2014年4月20日発行)より転載

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