カトリック上福岡教会

教会報から

五島によくある話

Jさん(男性)

久しぶりに訪ねた五島福江島は、開発の波に洗われながら、確実に過疎化も進んでいた。

上福岡教会の青年達が、三井楽の向かいにある20軒足らずの小さな部落打折に巡礼したのは、野上師から篠原師へ代わった38年前のことである。今はほんの数軒しか残っていないこの地にも、その昔、迫害の嵐が吹きつけていた。

江戸末期、福江藩主は、土地を開発するのに必要な人民を譲ってくれるよう大村藩主に申し入れた。それに応じて五島に最初に移り住んだのは、外海地方の人達であった。しかし、いつんのもん(居着いた者)が、御禁制の隠れキリシタンらしいと知られるようになるにつれ、じげんもん(地元の者)に気味悪がられるようになった。そして強烈な差別意識が生まれていった。にもかかわらず、流入民は最初に予定していた地域、人数をはるかに超えた。そして、大村藩にとどまらず、他藩からも五島中のあちこちに移住していった。それもじげんもんの差別意識に拍車をかけたようだ。

そして、明治政府が、キリシタン禁止令を継承すると宣言した明治元年より、禁止令が解かれる明治6年まで、五島中に迫害の大嵐が吹き荒れたそうである。


安五郎の父母が外海地方から三井楽に移り住んだのは、生活苦と迫害から逃れるためだけではなく、口べらしのため長男を残して間引きされていたことが、大きな要因になったと思われる。

三井楽の家に役人達がやってきたのは、安五郎が数えの6歳の時であった。彼らが目をつけたのは、親でも歳の離れた兄でもなく、かわいい盛りの安五郎であった。三角薪の上に座らされ、ひざの裏にも薪を挟み、上には板石を乗せる。いわゆる算木責めにあっている我が子の姿を見せつけられる。板石がずれ落ちてきて親がホッとしかけると、叱られると思った安五郎は、また元の位置に引き戻してしまうのである。それを見て、まずこらえきれなくなったのは母親であった。「もうやめてください。確かに私たちは天主様を信じています。」「はなっからそう言やいいんだ。」と言うなり、役人の鉄拳が飛んできた。

「自分のことなら我慢できても、子供のことになると我慢できないもんだなあ。」と後に父親は言っていたそうだ。その父親も、母親も撲殺された。(一年後、暴行の後遺症に苦しみながら息絶えた。)孤児になった安五郎は、打折に住む子供のいない中浜夫婦に引き取られ、長じて多くの子をもうけた。中でも優しかった母親にそっくりな末娘のフデは嫁ぎ、9人の子をもうけ、大きな愛情を子供達に注いでいた。そして安五郎は、太平洋戦争が始まる頃、約80年の生涯を閉じた。フデの9番目の子、最後の孫である安男が生まれる5年前のことであった。

現在、安五郎の血筋は、およそ200人の信徒に引き継がれている。思えば間引きされるはずの子であった。両親は五島へ移住することにより、自分達の生命と引き替えに我が子の生命を救ったのである。同時に多くの子孫の生命まで救ったのである。残酷な十字架の死によって、全人類の罪をあがない救ったキリストに倣うかのように。


五島の信徒達にとって、年に1度長崎へ渡り、晴着を着て教会へ行き、御復活のミサで御聖体を拝領することが、最も大きな行事になった。乗り物はふだん大敷網に使っている「ダンべ」という六丁艪の大船である。非常に安定しているがスピードは遅い。100kmの行程を往復するには、2週間の日数が必要であった。往きは聖体拝領の準備のため一切の飲食物を摂らず、唾さえ飲み込まず、海に吐き棄てながら進んで行った。

長旅に耐えられない年寄や子供達は、留守番をしていた。そこを訪れた人が子供達に聞いた。「みんなどけ行っちょっとな?」「長崎に行とっと。」「いつ戻って来っとな?」「2週間後って言いよった。」

五島は元来、倭寇の本拠地である。そのことを子供達が知るはずもない。長崎からみやげを持ち帰ってくる信徒達の「ダンべ」がその標的になることもあった。猛スピードで迫ってくる海賊から逃れるすべはない。証拠を残さぬよう、皆殺しが彼らのきまりであった。まるで魚を突くように、何のためらいもない。五島に残っている信徒のために、時には外国の宣教師が乗り込んでいることもあった。「『私も殺しますか?』って、とぼけたことば外人の言うたとよ。『うぬば殺すの殺さんのってあるか。』って答えたっじゃばって、こつがなかなか死ににくかったね。」と後に賊の一人が述懐している。はるかヨーロッパから日本まで宣教に来て、殉教でもなく、盗賊に殺されてしまうとは、死んでも死にきれなかったことであろう。


打折には、中浜、川上、水浦、山川、石山、山崎、笠浦の七つの姓があった。出津方面から移住した三兄弟は、安五郎を引き取った長男が中浜、次男が石山、三男が笠浦の姓を名乗った。安五郎一家に起きた悲劇を知った石山は、我が子政吉とタツ兄妹を寺に預け、恭順の意を示した。タツは後に、山川家の祖先になっている。笠浦は、役人が来ればすぐ山に逃げ込めるような裏地に住んだ。

ところで、水之浦から来て石工を営んでいた水浦は、日本橋の建設に応募して上京していたようである。後に政党内閣を成立させる原敬が、若い頃神田教会で受洗しているが、その時の代父になっている。原敬は贈答品を贈り主に返すように名簿を残したと言われている。どれほど断っても無理やり置いていかれる贈答品に、信仰上苦慮していたようだ。幕末から明治にかけて、西洋文明を支えるキリスト教に注目する進取の精神に満ちた人達が増えたことも、キリシタン禁止令が解かれる要因になっていたことであろう。もちろん、宣教師達の政府への働きかけも忘れてはならないが。

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2013被昇天号(2013年8月15日発行)より転載

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