説教
四旬節第3主日(A年 2026/3/1)
ヨハネ4:5−42
今日の福音は、主イエスとサマリアの女との出会いを伝えていました。最初、イエスは女に水をくださいと願われましたが、やがてご自分が与える水について語られました。イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」また、ヨハネによる福音書7章では、この意味が説明されています。「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる人は、聖書が言っているとおり、その人の内から生きた水の川が流れ出る。」これは、イエスを信じる人が受けることになる聖霊を指して言われた言葉です。つまり、主が与えてくださる命の水とは聖霊であり、また聖霊を通して私たちに伝えられる主のみ言葉でもあります。聖霊が、主のみ言葉を私たちに教え、思い起こさせてくださるからです(ヨハネ14:26参照)。
すると女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いました。これはイエスのみ言葉をまだよく理解していなかったための答えでしたが、彼女の生活を考えると理解できます。当時は水道がなく、女たちは遠い道を往復して重い水の入ったつぼを運ばなければいけませんでした。だから、もし一度飲めばもう渇かない水があるなら、そんな苦労をしなくて良いと思ったのでしょう。
しかし、この女には体の渇きだけでなく、もっと深い心の渇きがありました。彼女はすでに五人の夫と生活し、今は六人目の男と暮らしていました。当時の社会では、夫が妻を簡単に離縁することができ、離縁された女性は生きていくために他の男に頼るしかありませんでした。彼女は人々の目を避けるため、暑い真昼に一人で水をくみに来たのかもしれません。彼女の人生は孤独と傷に満ちていたことでしょう。
そのような女に、イエスは優しく近づかれました。イエスは彼女を裁いたり責めたりはなさいませんでした。むしろ、彼女をそのまま受け入れ、愛と忍耐をもって命の水へと導かれました。やがて彼女はそのように語られたイエスをメシアと信じ、自分の町の人々にイエスのことを伝えました。そして多くのサマリア人がイエスのみ言葉を聞き、イエスを世の救い主と信じるようになりました。
ヨハネ福音書の象徴的な表現では、このサマリアの女は私たち一人一人を表しています。私たちも人生の中で、さまざまな理由で渇きを感じます。人間関係の傷に苦しんだり、慰めや愛を求めたりします。その渇きが満されない時、人は生きる意味を失い、深い絶望に陥ることさえあります。だからこそ、私たちには主が与えてくださる命の水が必要なのです。
しかし、主の水をいただいても、私たちは時に渇きを感じます。その理由は二つあります。一つは、私たちが聖霊に従わず、自分の欲望や執着に従って生きてしまうからです。もう一つは、神が私たちの魂を鍛えるために、あえて渇きを許される場合があるということです。これを「魂の暗い夜」と呼び、聖人たちも経験したと言われています。
今日の福音は、イエスが絶望の中にいる人に命の水を与えるために来られた救い主であることを教えています。そして私たちは典礼と祈りの中でその主に出会うことができます。イエスは言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」まことの礼拝とは、神と愛の中で親しく出会うことです。だから、礼拝は無理にする義務ではなく、神の愛とその喜びをもってささげるものでなければなりません。もし結婚記念日に、夫が妻にバラの花をプレゼントし、妻が「ありがとう」と言ったとします。その時夫が「お礼なんていいよ。義務だから仕方なく買ってきただけだよ」と言ったら、妻はとても悲しい気持ちになるでしょう。それと同じように、神への礼拝も、義務だからするものではありません。自分の心から出る愛情と喜びをもってささげるものであるべきです。そして、神を見つめながら、心をこめて礼拝することが大切です。もしそのように礼拝するなら、ミサの間に他のことを考えたり、別のことをしたり、教会報などを読んだり、「今日はだれが教会に来ているのかな」と周りを見回したりすることは、自然となくなるでしょう。
私たちはまことの礼拝をするために、三つの姿勢を大切にできたら良いと思います。一つ目は、準備された心でミサにあずかることです。二つ目は、ミサの意味を理解し、心をこめて積極的にあずかることです。三つ目は、感情だけでなく、意志をもって信仰生活を生きることです。
また、神への礼拝は教会の中だけで行われるものではありません。家庭や職場など、日日の生活の中でも、善い行いと愛の実践を通して神に礼拝をささげることができます。
私たち皆が、命の水を与えてくださる主に感謝し、聖霊の助けによって主のみ言葉に従い、準備された心と自発的な愛をもって神を礼拝することができますように。そして私たちの内から命の水が湧き出て、喜びと命に満ちた人生を生きていくことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父






