説教
年間第4主日(A年 2026/2/1)
マタイ5:1−12a
聖ルドビコ茨木は、「日本26聖人」の中で最も年少の殉教者(12歳)として知られています。フランシスコ会の第三会員(在俗会員)として宣教師たちを助け、侍者(奉仕者)として働いていた少年の信者でした。
16世紀末、日本では豊臣秀吉が1587年に宣教師追放令を出しましたが、信仰そのものは禁止されていませんでした。1590年代に入ると、西洋と日本との関係が一時的に和らぎ、宣教活動も慎重に再開されました。フランシスコ会の宣教師たちは、京都の周辺に聖堂、修道院、病院を建て、公に活動するようになりました。
しかし、そのような動きは日本の支配層の反感を買いました。さらに1596年、スペイン船サン・フェリペ号の事件によって、西洋勢力の侵略意図が大げさに伝えられ、秀吉の強い疑念と怒りを招くことになりました。
その結果、1596年12月、京都・大阪地方で活動していたフランシスコ会の会員たちを逮捕する命令が出され、ルドビコ茨木も都で捕まりました。最初はフランシスコ会の司祭・修道士、日本人の在俗会員、イエズス会の修道士など24人でしたが、彼らの世話をしていた信者二人も捕まり、最終的に26人となりました。
彼らは1597年1月3日に死刑判決を受け、真冬の厳しい寒さの中、京都から長崎まで数百キロの道を歩かされました。2月5日、長崎の近くの浦上でゆるしの秘跡(告解)を受けた後、同じ日に西坂の丘へ連れて行かれ、十字架刑と槍で突かれる刑によって全員が殉教しました。
ルドビコ茨木は、あまりにも幼いため、命を助けてやろうという侍の勧めにも信仰を捨てず、「あなたもキリスト者になって、私と一緒に天国へ行けたらよいのに」と堂々と答えたと伝えられています。また、自分の体に合わせて作られた小さな十字かを見つけると、走り寄って抱きしめ、主を賛美する歌を歌ったという話も残されています。
この26人は日本の教会における最初の公式な殉教者として記憶されています。1627年9月、教皇ウルバノ8世によって福者に列せられ、1862年6月8日、教皇ピオ9世によって「日本26聖人」として列聖されました。西坂の丘は今も「殉教者の丘」と呼ばれています。
聖ルドビコ茨木の生涯と殉教は、今日のカトリック信者にとっても多くの模範を示しています。
彼は幼い年齢でありながら、苦しみや死の前でも信仰を曲げませんでした。現代を生きる私たちも、困難や誘惑、社会からの圧力の中で、信仰を固く守る勇気を学ぶことができます。
彼は、一時的な命よりも、永遠の命、すなわち天国を選ぶ姿勢を身をもって示しました。日々の生活の中で、神が約束してくださる永遠の命を見つめる視点の大切さを教えてくれます。
また、殉教の瞬間においても喜びをもって信仰を告白したと伝えられるように、信仰生活は苦しみだけでなく、神との交わりの中で喜びと平和を見い出す歩みであることを示しています。
さらに、26人の殉教者たちの犠牲は、日本の教会が厳しい迫害の時代を耐え抜くための尊い証しとなりました。私たちも、自分一人の信仰だけでなく、教会と共同体のために生き、証しを立てる生き方を考えることができます。
ルドビコ茨木は、幼くして成熟した信仰を持ち、すべてを神に委ねる殉教の生涯を通して、今日の信者たちに信仰の真実さと、揺るがない希望を思い起こさせてくれる存在として生き続けています。
今日の福音は、主イエスによる真の幸せについての教えです。主が言われる「幸いである」とは、世の成功や物質的な満足ではなく、神との関係の中で与えられる、深く永遠の幸せを意味しています。
まず主は、「心の貧しい人々」は幸いであると言われます。これは何も持たない人ではなく、自分の力に頼らず、すべてを神に委ねる人のことです。そのような人は、すでに今、神の国の支配と守りの中に生きています。
「悲しむ人々」も幸いです。今も主は慰めてくださいますが、神の国が完成する時、すべての涙(心の傷のある人、不正のために悲しむ人、もう亡くなった人の涙、その人のために流す涙など)がぬぐわれ、完全な慰めが与えられます。
「柔和な人々」とは、神の前にへりくだり、他者に暴力を用いず、自分の怒りや衝動を押さえる人です。そのような人は、神の約束された地を受け継ぎます。
「義に飢え渇く人々」とは、神の国とそのみ旨を絶えず求め、願い続ける人です。主は、完全な人ではなく、義を求め続ける人を幸いだと言われます。
「憐れみ深い人」は、他人の弱さを理解し、進んで赦す人です。その人は、神から憐れみを受けます。
「心の清い人々」は、罪を避けるだけでなく、神に向かう心が分かれていない人です。その人は神を見るという、大きな恵みを受けます。
「平和を実現する人々」は、争いを避けるだけでなく、神と人、また自分自身との間に和解と一致をもたらす人です。その人は神の子と呼ばれます。
そして最後に、「義のために迫害される人々」も幸いであると言われます。世では苦しみを受けますが、神は共におられ、その悲しみは神の国において喜びへと変えられます。
この八つの真の幸せを通して主は、真の幸せは財産や成功、力から来るのではなく、神を信頼し、そのみ旨の中に生きることから与えられると教えておられます。
だからこそ私たちは、神だけにより頼む「心の貧しい人」となり、主イエスに倣い、愛と憐れみと平和を生きる者であったらと思います。その道こそが、主が約束してくださる真の幸せへと続く道なのです。
カトリック上福岡教会 協力司祭 李 太煕(イ・テヒ)神父






