カトリック上福岡教会

説教

年間第3主日(神のことばの主日)(A年 2026/1/25)

マタイ4:12−23

今日の福音で、イエスはガリラヤへ退かれました。ガリラヤ地方は、昔さまざまな国に支配され、その中で多くの異邦人が住むようになりました。その後、ユダヤ人がこの地を取り戻し、異邦人たちに無理やりユダヤ教へ改宗させました。しかし、エルサレムを中心とするユダヤ地方に住む人たちは、ガリラヤの人々を「血統も信仰も純粋ではない」として差別し、見下してきました。またガリラヤには、裕福な人よりも、貧しい小作農が多くいました。彼らは地主に地代を払い、ローマ帝国に税金を納め、さらに宗教税も払わなければなりませんでした。そのため、生活はとても苦しいものでした。ローマに税金を払わなければ厳しい罰を受けるので、多くの貧しい人たちは、ローマへの税金だけで精一杯で、神殿税を払えず、「罪人」として扱われていました。

そのようなガリラヤの人々のもとに、イエスは光として来られました。

「暗闇に住む民は大きな光を見た。死の陰の地に住む人々の上に、光が昇った。」

それからイエスはガリラヤ中を巡り歩き、病人や弱い人、悪霊につかれた人々をまず訪ね、癒されました。こうしてイエスは公生活の始まりからその大部分をガリラヤの人々と共に過ごし、彼らに福音を宣べ伝えられました。

イエスが宣べられた福音の中心は、「神の国」です。神の国とは、空の上にある遠い世界のことではなく、神ご自身が愛と力、正義と平和をもって治められる支配のことです。ユダヤ人たちは、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めに従い、「神」の代わりに「天」という言葉を使いました。そのため、「天の国」とは、神が愛と義と平和によって治められる国のことです。つまり福音とは、ガリラヤの人々に向かって、「神は人々を罪悪感と不正、闇から救い出し、愛と正義によって治めてくださる。その神の国が、すでにあなたがたのそばに来ている」という知らせなのです。イエスが病人や悪霊につかれた人々を癒されたのも、癒しと救いの神の国が近づいているしるしでした。

しかし、神の愛と義と力が私たちを治めるためには、まず私たちが回心しなければなりません。回心とは、ギリシア語で「メタノイア」と言います。「メタ」は「越えて」という意味で、「ノイア」は「心」「考え方」を意味する「ヌース」から来た言葉です。つまりメタノイアとは、「今までの価値観を越えて、真理であり命である主の価値観へ向かって生きること」を意味します。それは単に過去の過ちを後悔して正すことではなく、「意識の変化」であり、「人生の方向転換」です。もし私たちが、お金や財産、出世、名誉、人気、見せかけ、ぜいたく、欲望、自己満足、自分自身の考えや計画が自分を生かし、救ってくれると信じ、それらを人生の中心に置いているなら、「主こそが私を生かし、救ってくださる方だ」と気づいて、回心する必要があります。

回心するためには、まず自分が神ではない空しいものを光だと思って生きてきたこと、そして本当の光である神を背け、闇と空虚の中で生きてきたことに気づかなければなりません。闇にいる人こそ光を求め、むなしさにもがく人こそ命の主を探すからです。回心する人は、私たちの罪をあがなうために犠牲となり、血を流された主の愛を心から信じ、受け入れます。それは、思春期の子どもが親を困らせ続けながらも、親が自分のために耐え、犠牲を払い、最後まで愛してくれたことを知って、心から悔い改め、新しい人に生まれ変わることに似ています。これからは、他のものを人生の中心にするのではなく、主を中心に迎え、主のよいみ言葉とみ心が自分のうちに実現するように、真の回心によって光である主のうちに喜んで生きていきたいものです。

続いてイエスは、神の国の喜びの知らせを伝えるために、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを「人間をとる漁師」として呼ばれました。彼らはすぐに網を捨て、つまり、これまで安心して頼り、執着してきたものを捨て、「人間をとる漁師」の道を歩み始めました。「人間をとる漁師」は、魚を捕る網を必要としません。その網とは、福音です。教会という舟に乗る私たちは、福音という網によって、死を意味する海の中に生きる人々を救い上げます。そして教会という舟で、最終の目的地である救いと永遠の命へと向かいます。ですから、今日の「神のことばの主日」にあたり、福音を生きることで、神の恵みを必要としているすべての人々を、教会という舟へ導くことができればよいと思います。

新しい年を迎えた私たち一人一人が、神が愛と義と平和によって私たちを治め、新しくしてくださるよう、そのみ心と力を受け入れ、回心の道を歩むことができますように。また、ガリラヤで貧しい人々に神の国の福音を宣べられた主のように、私たちもみ言葉に親しみ、それを実行しながら、新しい福音的な生き方を生き、その生き方そのものによって宣教する者となれますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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