カトリック上福岡教会

説教

十字架称賛(2025/9/14)

ヨハ3:13−17

今日は十字架称賛の祝日です。十字架は主の苦しみと犠牲を表します。教会はイエスが十字架の上で全世界のためにご自分をささげられたこと、そして私たちも主にならって自分をささげるべきだと教えてきました。けれども人間として私たちは苦しみと犠牲を避けたくなります。ではどのように十字架を理解し受け入れるべきでしょうか。

多くの人は次のように誤解します。「神は厳しい正義のために贖いの供え物を必要としそのために独り子の犠牲を求められた。」しかしこれは聖書のメッセージを歪めるものです。イエスの死を望んだのは神ではなく人間でした。もし神が独り子の死を望まれたのだとしたら信者にとって神は愛の父ではなく残酷な存在に見えてしまうでしょう。

イエスが初めから語られたのは「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という喜びの知らせでした。さらにイエスは「目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くされ、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(マタイ11:2−5)と言われました。これは世の惨めさと苦しみを癒し、取り除こうとなさる神のみ心を示します。イエスは惨めさと苦しみは創造の本来の姿ではないと信じ、世が神の支配のうちに新たにされることを望まれました。

イエスは天におられる御父を全く信頼しておられました。しかし人々はイエスを拒み、その結果、イエスは十字架で死を迎えられました。けれどもその犠牲は消え去りませんでした。重荷を負う人、迫害される人、無視される人のための愛の犠牲として残り、世を変えていきました。

「キリストはわたしたちを愛し、わたしたちのために、ご自身を神にささげものとして、いけにえとして献げてくださいました。それは香りのよい供え物でした。」(エフェソ5:2)この言葉は神が和解のために他者の血を求められたのではなくイエスのうちにご自分を与えてくださったことを示します。

そしてその愛の犠牲によって死から復活された方が今も私たちと共におられ、助けてくださること、また十字架の道、愛のために自分をささげる道を歩む者は主のように復活にあずかると信じます。

「犠牲」は好きになれない言葉かもしれませんが、実は私たちの生活は誰かの犠牲に支えられています。親の忍耐と心配、夫婦の相互のゆずり合いがなければ、家庭は成り立ちません。愛にはいつも自分を手放す痛みが伴います。教皇ベネディクト十六世も「愛に『はい』と答えるその瞬間から痛みが始まる。しかし、その痛みがなければ、愛は利己心にすぎなくなる」と語られました。イエスの十字架の犠牲は、まさにこの愛の決定的な表現です。イエスはご自分のためではなく、神と私たちのために命をささげられました。その愛が世を変えたのです。

私たちも愛する人が苦しむとき、共に苦しみを担い、ときに犠牲を受け入れねばならないことがあります。その道は優しくはありませんが、その中で変化が始まります。イエスが十字架と苦しみを通って、復活の栄光に入られたように私たちも犠牲と愛によって新しい命と永遠の命にあずかることができます。

この十字架称賛の祝日に私たちは十字架を単なる苦しみの印ではなく、神がご自分を与えられた愛の印として改めて見上げたいと思います。そして主にならい犠牲的な愛で隣の人を生かし、弱い人を助け、傷ついた心に慰めを届ける信者でありたいと願います。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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