説教
年間第22主日(C年 2025/8/31)
ルカ14:1、7−14
今日の福音で、イエスは上席に座ろうとするファリサイ派の人たちに、婚宴では上席ではなく、末席に行って座るようにと教えられました。謙遜に自分を低くするとき、かえって栄光を受けることになるからです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「自分の人生の主人公は自分だ」という言葉をよく聞きます。確かにその通りです。しかし、それは「自分が一番だ」とか世俗的に「自分の気分や思うままに生きる」というような、高慢で自己中心的な意味ではありません。信仰の中では、「神の前で責任を持って選択する自由と尊厳」を意味します。神は私たちを操る糸のない人形のようにはなさいません。むしろ、神は私たちを愛し、自由を与えてくださり、私が私らしく生きることを望んでおられます。しかし同時に、その自由を神の御心に沿って用いるとき、私たちの人生は真の意味と幸せを得るのです。例えるなら、私の人生という舞台で、私は主人公ですが、その舞台の監督は神です。神は物語の方向と目的を定め、私が道を迷わないように導かれます。そして同時に観客でもあります。神は私の人生全体を見守り、最後まで愛をもって応援してくださるのです。謙遜な人になるためには、自分が人生の主人公であるという考えと同時に、その人生の監督であり観客でもある神を思い起こす必要があるでしょう。
謙遜とは、本来、私が世の中の主人ではなく、神が主人であり、人間は神が造られた小さく限りある被造物であることを認めることです。謙遜はラテン語で「Humilitas(フミリタス)」と言い、「土」を意味する「humus(フムス)」から来ています。人間が土で造られた存在であることを知り、創造主である神に依り頼み、礼拝と賛美をささげる態度を表します。人間は壮大な山や深い海、星空や広大な宇宙を見て、自分の小ささを体験し、それを創造された神の偉大さを思います。そのとき、人間がどれほど弱く限界のある存在であり、神の愛と恵みなくしては生きられないかを悟るのです。
しかし、この謙遜は自分を卑下したり、卑屈になることではありません。自分の弱さや限界をそのまま認めることです。そのとき、神の愛と恵みが私たちに注がれます。神の愛は高いところではなく、低いところ、弱いところ、欠けたところに流れ込むからです。また、イエスが言われた「末席」に座ることは、他の人に上席を譲り、相手を高めることでもあります。自分の意志ではなく、神の御心を求め、隣人を優先する姿勢です。その人は自分を誇示せず、神の栄光と隣人の益のために自分をささげます。
末席は、注目される上席とは反対に、人の目が向かない場所、疎外された人がいる場所でもあります。イエスもまた、貧しく小さな人たちと共に生き、彼らの友だちとして歩まれました。パウロはフィリピの手紙で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と証言しています(フィリピ2:5-8)。このように「末席に座る」とは、貧しく弱い人、疎外された人と共に座り、彼らを愛し、見返りを求めずに仕えることです。そのような謙遜と愛を実践する人は、神によって報いを受けるのです。
今週、自分をあるがままに認め、謙遜の心で弱い人、疎外された人を大切にし、彼らを支え、神の愛を伝える一週間を過ごしましょう。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父