説教
年間第21主日(C年 2025/8/24)
ルカ13:22−30
今日の福音で、ある人がイエスに尋ねます。「主よ、救われる者は少ないのですか。」これは単なる好奇心ではなく、当時のユダヤ人たちの選民思想から出た言葉でした。彼らは自分たちだけが神に選ばれた民だと考え、異邦人を見下していました。
しかしイエスは人数について答えず、こう言われます。「狭い戸口から入るように努めなさい。」これは救いが家族の信仰や伝統、自分の信仰生活の長い年数によって保証されるのではなく、狭い門を通ろうと努める人に開かれているという意味です。
「狭い」という言葉はギリシャ語で苦しみや努力を含み、「努める」は競技者が全力を尽くす姿を表します。つまり信仰生活は、犠牲と奉仕、赦しと仲直り、謙遜と自己放棄を求められる道です。時には信仰のために侮辱や迫害を受けることもあります。
しかし、これらすべては信仰を鍛え、天国の生活に適応させるための過程です。昆虫学者のチャールズ・コウマンは、最初に幼虫が蛾になる様子を観察したとき、小さな繭の穴から出ようと必死にもがく蛾がかわいそうに思えて、はさみで穴を広げてやりました。しかし、広くなった穴から簡単に出てきた蛾は、飛ぶことができず、ただもがきながら這い回るだけで、結局死んでしまいました。繭の小さな穴を通らなければ、繭の外の世界に適応することができなかったのです。同じように、狭い戸口を通らなければ、天国に適応することもできません。狭い戸口は、天国へ行くための人生の過程であり、また天国の生き方を学ぶ授業であると言えます。
また、この戸口、門は謙遜の門でもあります。イスラエルに行くと、「イエス誕生聖堂」と呼ばれる場所に特別な入口があります。その入口は、高さ約140センチ、幅100センチほどの小さな門です。この門は、十字軍時代にイスラム教徒たちが馬や馬車で聖堂に入れないように小さく作られたと言われています。今でも聖堂の中に入るためには、すべての人が腰をかがめ、低い姿勢で通らなければなりません。福音でイエスが言われた「狭い戸口」も、同じように自分を低くし、謙遜になるときに入れる門だと考えられます。
では、自分を低くし、謙遜に生きるとは、どんな意味でしょうか。ルカ福音書17章10節には、このような言葉があります。「『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ここで「取るに足りない僕」と言うと、自分を価値のない存在だと思いやすいかもしれません。しかし、この言葉は自信をなくして生きろとか、自分の存在を卑下したり嫌ったりしろ、という意味ではありません。人間の尊厳は、神がわたしたちを創り、愛してくださることによって守られています。つまり、この言葉は、自分がしたことを特別な功績と考えるのではなく、神の前で当然すべきことを果たしたのだという謙遜と従順の態度を持ちなさい、という意味なのです。
イエスはこの言葉を通して、私たちが神に従い、謙遜に生きるのは、自分の力で正しくなったとか、報われるに値すると主張するためではなく、すべてが神の愛と恵みであることを悟らせるためだと示されています。たとえ忠実に奉仕し、誠実に生きたとしても、それは神の愛と恵みに応えたにすぎません。祈りや善行、奉仕に励むとき、私たちは「自分がどれだけ頑張ったか」と努力や功績を数えたり、報いや証人を求めたり、人に誇りたくなるものです。しかし、真の弟子は「ただ任された務めを果たしただけ」と考え、人間的な報酬や評価ではなく、神の前での誠実を大切にします。親の大きな愛を感じた子どもが、親に尽くすのは、報われたいからでも、人に自慢するためでもなく、当たり前の孝行だと思うように、私たちの善行や奉仕、神の言葉に従う信仰生活は、自分の努力や功績ではなく、神が私たちを愛し、救ってくださることに対する自由、感謝、喜びの生き方であり、神への愛と孝行の当然の務めなのです。
結局、狭い戸口は特別な人にだけ開かれるのではなく、誰でも入ろうと努める人に開かれています。苦しみや困難があっても、主の愛と恵みを信じ、謙遜と従順の心で歩みましょう。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父