説教
年間第20主日(C年 2025/8/17)
ルカ12:49−53
今日の福音を読むと、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」、「平和ではなく、分裂をもたらすために来た」、「家族が対立して分かれる」――と言うイエスの御言葉は驚きと戸窓いを与えます。
では、これらの御言葉をどう理解すればよいのでしょうか。まず、イエスがおっしゃった「火」とは何を意味しているのでしょうか? それは、聖霊の火を表しています。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌」として現れ、弟子たち一人一人の上に留まったと語られています。聖霊の火は、罪を焼き尽くして浄め、心に愛の熱い炎をともします。
昔、伝染病が広がった場所では、その拡大を防ぐために建物を火で焼くことがありました。大切な物を失う痛みがあっても、命を守るための行動だったのです。同じように、イエスは聖霊の火によって、私たちの不正や罪を焼き尽くし、新しい愛の生き方へと導いてくださいます。
しかし、そのためには、これまでの慣れ親しんだ生活を手放す勇気と痛みが必要です。「まあ、これでいいや」と妥協してきた生き方と別れること、内面での戦いや努力を通して、本当の幸せと平和を目指すのです。
でも、自分が変わっていくとき、周りの人――特に、以前と同じ価値観で生きている人――と、距離が生まれてしまうことがあります。たとえば、学生が友達に「タバコを吸おう」と誘われたとします。「私はやらない」と答えたとき、その仲間から距離ができたり、仲間外れにされたりすることもあるでしょう。そこで、「なんでやらないんだよ」などと口論になってしまうこともあるかもしれません。イエスが言われた「分裂」とは、まさにそういう意味です。不正と離れるならば、たとえそれが家族であっても、対立や分裂は避けられないのです。
さらに、不正や偽りが、個人レベルを超えて、社会や国全体に広がると、その影響はもっと深刻になります。第一朗読では、預言者エレミヤが出てきます。当時のユダ王国は、政治も宗教も腐敗しきっていました。エレミヤは人々に向かって、悔い改めなければバビロンによって滅ぼされると警告しました。しかし人々は耳を貸さず、エレミヤを裏切り、今日の朗読にあるように、井戸の底に投げ込み、命を狙いました。けれども、エレミヤはバビロンの味方ではありませんでした。ただ神の御言葉に忠実だったのです。彼は孤独と苦しみの中でも、神の真実を伝え続けました。イエスもまた、同じように誤解され、拒絶されました。
今日の福音でイエスはこう言われます。「わたしには受けねばならない洗礼がある。これが成し遂げられるまで、わたしはどんなに苦しむことだろうか。」これは、イエスがこれから受ける十字架の苦しみと死を示しておられる御言葉です。その道は本当に苦しく、孤独でした。弟子たちさえも、恐れから離れていきました。しかしイエスは、最後まで神のみ旨に従い、十字架を通して人々を救ってくださいました。
私たちは、このイエスの生き方こそが愛であり、真理であり、命への道であると信じています。たとえ人から理解されず、孤独であっても、私たちの先を歩かれた主イエスを見上げながら、勇気と慰めをいただき、希望をもって歩んでいきましょう。私たちの努力と苦労は、やがて実る花のようなものであり、復活という栄光へと続く十字架の時でもあります。私たちは一時的な偽の平和や、権力や富による不正義を望むのではありません。聖霊の火に支えられ、正義と愛に基づいた「真の平和」を生み出す人間でありたいのです。主が私たち一人一人の歩みを祝福し、ご自身と共に、すべての人と共に、本当の平和と幸せへと導いてくださいますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父