説教
年間第17主日(C年 2025/7/27)
ルカ11:1−13
今日は、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:9−10)というイエスの御言葉を黙想します。この御言葉は、さまざまな不足や必要を感じる日常の中で、大きな慰めと力を与えてくれます。しかし、私たちは時に、一生懸命祈ったのに、その願いがむなしく終わってしまう経験をすることがあります。治ってほしい人が病気になり、合格すべき人が落ち、努力して進めてきた計画が水の泡になり、大切な人が亡くなってしまうこともあります。そのような時、神を恨んだり、信仰を捨てたくなったりすることもあるでしょう。
しかし、まず、祈りについての誤解を解くことが大切です。祈りは自動販売機のように、決まった言葉や回数を唱えれば欲しいものが得られる、というものではありません。創世記に出てくるアブラハムが主に何度も願い求めたように(参照:創世記18:20−32)、祈りとは神と人間の間で続けられる「人間的」な関係に基づいた対話なのです。
この祈りを本当の意味で主との関係の中で捧げるには、イエスが教えてくださった神の呼び名、「アッバ、父よ」という御言葉を受け入れることが必要です。「アッバ」とは、深い信頼と親しい関係の中でだけ使われる、子どもが父親を呼ぶ時の言葉です。イエスはご自身が神をアッバと呼び、私たちにもそのように祈るように教えてくださいました。
『主の祈り』は、子と父の関係を前提とした祈りです。子どもが父親に必要なものを願うのは自然なことです。だから私たちも、父なる神に信頼をもって願うことができます。そしてその祈りを通して、私たちが神なしでは生きられない存在であることを認め、告白するのです。
また、『主の祈り』では、私たち自身のことよりも、神のみ旨をまず求めるように教えられています。日ごとの糧、罪のゆるし、誘惑からの保護といった願いは後半に置かれ、最初には「御名が聖とされますように」「御国が来ますように」と、神のことが優先されます。これは、私たちの願いよりも神のご計画を優先する祈りの精神を教えているのです。
では、なぜ神のみ旨を先に願うべきなのでしょうか? それは、神が与えてくださるものが、私たちにとって本当に良いものであるからです。私たちが望むものよりも、神はもっと良い方法と時を選んで与えてくださいます。
イエスは、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と教えておられます。神は私たちにとって最も良い「聖霊」を与えてくださる方です。私たちはその聖霊によって、どんな困難や試練の中でも平和と希望を持つことができます。
そして、アッバなる神の子として生きるためには、祈りの生活が欠かせません。家族であっても、会話がなければ親しさは保てません。同じように、神と対話し、交わりを深めることがなければ、神の子として生きていくことはできません。信者を花にたとえるなら、祈りは水や空気のようなものです。どんなに美しい花でも、水と空気がなければ枯れてしまうように、祈りがなければ信仰生活は成り立ちません。
この一週間、私たちがアッバなる神を信頼し、祈りの中で神との関係を深めていくことができますように。そして、神が最も良い時と方法で与えてくださる、その御心を信じて歩んでいくことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父