説教
主の昇天(C年 2025/6/1)
ルカ24:46−53
今日は、主が天にお昇りになったことを記念する「主の昇天の祝日」です。主の昇天は、単に物理的な空間への移動ではありません。これは、人間には理解できない神の超越的な領域、神の栄光と神秘、無限の力の中へ入られたことを意味します。そして、この昇天によって、イエスさまは時間と空間を超えて、いつでもどこでも私たちと共におられるようになりました。もし昇天されなかったら、私たちは主にお会いするために特定の場所へ行かなければならず、いつも共におられることはできなかったでしょう。しかし、主は昇天後に新しい霊的な方法で私たちと共におられ、私たちは主と出会い、語り合うことができるのです。
主は天において、私たちと共にいて、私たちの声を聞いてくださいます。旧約時代に、神はエジプトでの民の苦しみと叫びを聞かれました。この意味で、天は私たち人間が神に苦悩を訴え、神がそれを聞いて慰めと力を与えてくださる場所です。
私たちは生老病死の苦しみの中で生きています。隣人との葛藤や心の傷を抱えることもあります。天は、私たちがその苦悩を訴え、神が「あなたたちの苦しみを聞いている。勇気と希望を失わず生きなさい」と励ましてくださる場所です。イエスの言われた神の国は、今、私たちが生きる現実の中に隠されているのです。また、過ちを犯したり、憎い気持ちが生じたりした時に、「それでも許し、愛してみよう」という声を聞く場所でもあります。
人生が困難な時や、愛と許しが難しい時には、時々天を見上げましょう。イエスさまも疲れた時には天を見上げられました。現代社会では自分のことばかりに追われ、天を見上げるゆとりを失いがちです。しかし、隣人や自分の内面の声を聞き、許し、愛し、寛大になるためにも、天を見上げるゆとりと勇気が必要です。
天を見上げる人だけが、「あなたは私の愛する子である」という神の御声を聞くことができます。この声は、私たちに勇気を与え、隣人を愛し、希望を失わずに生きる力となります。
また、広々とした天は、私たちの心を広げ、ちっぽけな争いを恥ずかしいと思わせ、すべてを包み込むような寛大な心を産み出します。天は神の心を体験する場所なのです。苦しみや悲しみから解き放たれ、互いを許し愛するためにも、時々天を見上げ、神の広大な愛に留まり、その愛で隣人と接することが大切です。
私たち皆が、私たちと共におられるため、愛によって一つとなるため、そして神の国で永遠に共におられるために主が昇天されたことを心に止め、私たちのため「天の場」を設けてくださった主に感謝しましょう。そして、主と愛によって一つとなり、主に倣って愛し、許すことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父