カトリック上福岡教会

説教

復活節第3主日(C年 2025/5/4)

ヨハネ21:1−19

今日の福音は、復活なさった主を体験した弟子たちのお話です。シモン・ペトロを含む七人の弟子たちは、一晩中、漁をしましたが、魚は一匹も獲れませんでした。漁師にとって、これは単なる失敗ではなく、自尊心が傷つき、自分の限界と無力さを思い知らされる経験だったのです。

そんな彼らのもとに、夜明けに見知らぬ人が現れ、「子たちよ、何か食べる物はあるか?」と声をかけ、「舟の右側に網を打ちなさい」と言いました。弟子たちはその言葉に従い、すると大量(たくさん)魚が獲れました。その瞬間、ある弟子が叫びます。「主だ!」――主の言葉に従ったとき、彼らは新しい命の次元を体験したのです。

この体験は、自分の力だけでは限界があり、主のみ言葉に従うことで、新しい命の世界が開かれるということを示しています。十字架の上で完全に無力となり、世間的に見れば「失敗者」と見えるイエスさまこそ、その姿で命の門を開かれたのです。

その後、イエスさまはペトロに三回も「わたしを愛しているか?」と尋ねられます。これは、ペトロがかつて三回、主を裏切った苦しい記憶を呼び起こします。この問いは、ペトロの心に深く刺さり、彼のプライドをへし折るものでした。しかしその中で、主は彼に「わたしの羊を飼いなさい」と使命を与えられました。傷や恥、無力さを通ってきた人こそ、本当の使命を担えることを示されたのです。

さらにイエスさまは、「あなたは若いときは、自分で帯を締められ、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」と言われました。これは、ペトロが主のために殉教する将来を示すと同時に、自分の力を手放した時こそ、福音の命に生きる始まりであることを教えています。

ヘンリ・ナウエン神父はこの福音について、「成熟とは、自分の思い通りに生きることではなく、望まない道であっても、神にゆだねて進む力である」と語っています。彼によると、真の霊的指導者は、力で人々を支配する者ではなく、愛のために自分を差し出す者なのです。

イエスさまは私たちに問いかけています。「拒まれ、捨てられ、傷つき、無力になったこの私のからだを、あなたは愛せますか?」イエスさまのからだは、成功や人気を求める人には到底愛せない姿です。世間の人は強い人、目立つ人を愛しますが、復活なさった主は、傷だらけで無力な姿で私たちの前に立たれます。そのような主を愛さなければ、真の復活を体験することはできません。

実際、最初に復活を体験したのは、大祭司や律法学者など力のある人々ではなく、社会的に弱い立場にあった女性たちでした。主は、世の力ではなく、愛によって世を救われたのです。私たちも、自分の力や業績、人気、成功を中心とした生き方を手放し、主イエスのように隣人を愛し、犠牲を払うとき、復活の命に与ることができるでしょう。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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