カトリック上福岡教会

説教

復活節第6主日(C年 2025/5/25)

ヨハネ14:23−29

今日の福音で、イエスさまは弟子たちにこうおっしゃいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

ここで言われる「世が与える平和」とは、どのようなものでしょうか? 人々はしばしば、平和は「強い力」によって保たれるものと考えます。しかし、それは本当の平和ではありません。自分が他人より強くても、その人が自分を恨み、復讐しようとするかもしれない。だから、常に警戒して、不安や恐れの中に生きなければなりません。また、人々は財産や地位、権力を持つことで平和を得られると考えることもあります。けれども、私たちはいつ、何が起こるかわかりません。今持っている物も、突然風のように消えてしまうかもしれません。また、それらを守ろうと必死になり、競争に疲れてしまうこともあります。

このように、「世の平和」は、いつか失われてしまう仮の安心であり、最終的には私たちを不安と疲労へと導いてしまいます。それに対して、主の平和はまったく異なります。主の平和とは、ただ争いや困難がない状態を指すのではありません。どんな状況や苦難の中でも失われない、永遠で揺るがない平和です。

では、どうすればこの主の平和を受け入れることができるのでしょうか。

一つ目は、「良心の声に従うこと」です。韓国のある村には「良心ショップ」という店があります。そこには店主がいません。人口が減り、元の店主が村を離れたあと、村長さんが生活用品を置いて、住民の「良心」に任せて運営することにしました。村人たちは自分で商品を選び、お金を払い、お釣りを持ち帰ります。時にはお金が足りず、帳簿につける人もいます。そこは単なる店ではなく、地域の人たちが集まり、語り合う温かい場となりました。人々は順番に店主になったり、お客さまになったりして助け合いいます。その結果、この店は地域の誇りとなり、村全体の雰囲気まで和やかにしました。その利益は、貧しいお年寄りの支援にも使われました。このように、主の教えに従って正直に、愛と分かち合い、ゆるしの心で生きていくとき、私たちの心と周りは主の平和で満たされていきます。

二つ目は、「主が共にいてくださるという信頼」です。イエスさまご自身も、私たちより多くの苦しみを経てこられました。敵意を向ける人々の中で、誤解され、拒まれ、裏切られ、疲れた人々を癒すために、身も心もすり減らすこともありました。しかし、イエスさまはいつも平和を保たれていました。なぜなら、天の父の愛と導き、救いを信じていたからです。

弟子たちとガリラヤ湖を渡っているとき、嵐が起き、舟が沈みそうになったときも、イエスさまは静かに眠っておられました。それは、神が共におられるという深い信頼があったからです。私たちも、気分が良くても悪くても、失敗しても、主はいつも共にいてくださいます。

目には見えなくても、愛をもって私たちを守り、導いてくださいます。そのことを信じ、聖霊の助けを願いながら、どんなときでも主についていこうとするとき、私たちは主の平和を少しずつ味わっていくことができるでしょう。

どうか、世の与える仮の平和ではなく、主の本当の平和を、私たちの心と生活の中でいただくことができますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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