カトリック上福岡教会

説教

復活節第5主日(C年 2025/5/18)

ヨハネ13:31−33a、34−35

今日の福音には、有名な「愛の新しい掟」が語られています。「私はあなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いに愛し合うならば、すべての人はあなたがたが私の弟子であることを知るでしょう。」

けれども、「知っていること」と「実行すること」は別です。私たちは「愛さなければならない」と知っていても、実際の生活では、家族や職場の同僚、奉仕者、距離のある人々を愛するのは難しいものです。

それは、私たちの愛の中心が「自分」になってしまっているからかもしれません。自分本意の愛は、相手から何かを得ようとし、見返りを求めます。相手を自分の思いどおりに変えようとしたり、「これだけやったのだから、あなたも応えるべきだ」と思ったりします。そして、相手が望むものではなく、自分が良いと思うものを押しつけてしまうのです。また、自分が損をしないように先に自分を守ろうとし、誤解や無視に敏感になり、自分を好いてくれる人だけを大切にすることも、自分本位の愛です。

しかし、主イエスの愛は、まったく異なります。それは、相手のためにすべてを差し出す「利他的な愛」です。弟子たちの足を洗ってくださった愛、ペトロがご自分を否認することをご存知でありながら、彼のために祈り、仲間たちを託された愛(ルカ22:32)、裏切ったユダの足を洗い、彼に「友よ」と呼びかけられた愛(マタイ26:50)、そして十字架の上で命を惜しまず捧げられた愛です。

この愛には、条件も見返りもありません。弟子たちに見捨てられても、ユダに裏切られても、怒ったり仕返ししたりなさいませんでした。主は、私たちが立派だから、功績を積んだから愛してくださるのではありません。罪を犯しても、主は私たちを見捨てず、無償の愛と慈しみを与えてくださいます。

旧約聖書の「トビト記」には「自分がされて嫌なことを、他人にしてはならない」(トビト4:15)という教えがあります。これは、ただ「人に迷惑をかけなければよい」という消極的な愛に留まる危険性もあります。また、「レビ記」には「自分自身のように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)とありますが、そこでは基準が「自分」に置かれています。ところが、主イエスの新しい掟は、「自分」ではなく「イエスさま」の愛を基準としています。だからこそ、新しいのです。

その愛は罪人にも敵にも向けられ、すべてを与え尽くす愛です。そして、その愛は自然と自己犠牲や謙遜へと導きます。まるで親が子に無償で与える愛みたいなんです。

最近、カトリック信者であるアメリカの副大統領J・D・バンス氏は、アメリカの厳しい移民排除政策の根拠として、カトリックの教理である「愛の順序」を挙げました。元々、「愛の順序」という教理は、「神を何よりも先に愛し、次に自分自身を愛し、そのように隣人も愛し、さらに食べ物、芸能人、趣味、旅行など、自分の好きな被造物や体験を愛する」というものです。ところが彼は、「家族が第一、次が隣人、所属集団、同胞市民、そして国家の順であり、そのあとに世界の他の人々を愛すのが道理である」と主張し、移民を差別し、排除しようとする態度を正当化しました。

これに対して、フランシスコ前教皇さまは、「キリスト教的な愛は、単純に徐々に広がっていく利己的な関心ではない」とおっしゃいました。そして、「良きサマリア人のたとえ話」を挙げ、サマリア人が死にかけていた敵対者であるユダヤ人を助け、彼に隣人として寄り添ったように、真の愛の秩序とは、国籍、宗教、社会的地位を越えて、すべての人々に例外なく開かれた兄弟愛であると語られました。また、最近新しく選ばれたレオ教皇さまも、教皇になられる前、SNSでこの問題に触れ、「イエスさまは、私たちに愛の序列を決めるよう命じたことはありません」とおっしゃっていました。このように、イエスさまが教え、実際に生きて示された愛は、いかなる条件や制限もなく、すべての人に受け入れられ、包み込む愛なのです。

主イエスは、この新しい掟を私たちが生きることを望んでおられます。それは重い義務ではなく、愛を受けた者だからこそ、実現できる喜びです。主の十字架の愛を信じ、その中に留まるとき、私たちは他者を愛する力を得ることができます。どうか、ご聖体拝領を通して主を心にお迎えし、その無償の愛のうちに留まりながら、私たちもまた、自分を忘れて他者のために生きる信仰者となることができますように。

カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父

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