説教
待降節第2主日(A年 2025/12/7)
マタイ3:1−12
大勢の人にとって、待降節はクリスマスを準備する時期です。しかし今、私たちは待降節をどのように過ごしているでしょうか。町にはクリスマスの音楽とにぎやかな騒音があふれ、店はお客さんを集めるためにキャロルを流しています。人々はプレゼントや飾りつけ、パーティーの準備で忙しくなり、買い物で心がいっぱいになります。
信者である私たちも、しばしば同じような状態になります。教会では典礼の準備、馬小屋の飾り、聖歌の練習など、やることがたくさんあります。もちろん、それらの奉仕は主なる神が喜んでくださることでしょう。しかし、外側の準備だけで終わってしまうと、クリスマスが終わった後に、心の中に虚しさや何かが足りない気持ちが残ることがあります。「本当にこれでよかったのだろうか」と自分に問いたくなることもあります。
クリスマスの意味を深く理解するためには、まず私たちが生きているこの世界を、ありのままに見る必要があります。残念ながら、この世界は私たちが夢見ていたような世界ではありません。戦争や争い、災害や飢え、病気や暴力が存在し、多くの人が傷つき、見捨てられ、孤独の中で生きています。悪が世界を汚し、世界は神の望みから遠く離れてしまったように見えます。
そのような世界の中で、私たちはしばしば「もはや出口が見えない」と感じます。社会全体のレベルでも、私たち一人一人の小さな日常生活の中でも、失望と不安、無力感が広がっています。未来に対する希望も砕かれてしまったように思えることがあります。
しかし、まさにこのような世界のただ中に、御子イエス・キリストが人間として来てくださいました。神は受肉によって、この汚れ傷ついた世界を、ご自分の世界として受け入れてくださいました。受肉とは、神がご自分を捨てて、徹底的にへりくだる出来事です。神は私たちの苦しみから遠く離れて座っておられる方ではありません。罪に満ちた人間性を受け入れ、私たちの一人となられた方です。
聖パウロがフィリピの教会への手紙で書いているように、「キリスト・イエスは、神と等しい方でありながら、それに固執しようとは思わず、ご自分を無にして僕の身分をとり、人間と同じ者となりました。そして、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ2章参照)
神の御子は、一番低いところへと降りて来られました。聖人シャルル・ド・フーコーが言ったように、キリストは誰もそれ以上低くなることができないほど、一番低い席まで降りて行かれました。か弱い赤ちゃんとして生まれ、ヘロデの迫害から逃げる難民となり、貧しい労働者の家で大きくなり、やがて人々から憎まれ、拒まれ、十字架の上でいのちをささげられました。
だからこそ、キリストは高いものも低いものも、大きなものも小さなものも、成功も失敗も、正しさも罪も、そして命も死も、すべてをご自分の中に抱くことができます。キリストが抱きしめることができないものは、何一つありません。ここにクリスマスが私たちに与える大きな希望があります。神は私たち一人一人を抱きしめてくださいます。そこから除外される人は誰もいません。小さく貧しく苦しむ人々、見捨てられ軽蔑されている人々のそばに、神は特に近くおられます。
では、なぜ神はここまで低くなられたのでしょうか。それは、ただ一言、愛のためです。私たちを罰するためではなく、私たちと同じところに立ち、私たちを抱きしめるために、神は低くなられました。
デンマークの思想家、哲学者キルケゴールが語る有名なたとえ話があります。ある王様が、町で一人の貧しい女の人を見て、心から愛するようになります。しかし、王様が自分の力で彼女を宮殿に連れて来れば、彼女が本当に王様を愛しているのか、ただ地位や富を愛しているのか分からなくなってしまいます。そこで王様は、すべての地位と特権を捨て、彼女と同じぼろ服を着て、同じ小さな家で暮らすことを選びます。そして、彼女と同じ人生を生き、やがて二人は結婚します。キルケゴールは、「愛とは相手を変えることではなく、自分が変わることだ」と言いました。
神も同じです。神は私たちと真実に愛の一致を生み出すために、自分から下って来られました。王様が貧しい女の人と同じ者になるように、神は私たちと同じ、いや、私たちの中でも一番低い人々と同じところまで来られたのです。
マイスター・エックハルトが語るたとえ話も同じことを教えています。片方の目を失って悲しむ妻に対して、夫は自分の目を一つえぐり出し、「私はあなたと同じになった。私は変わらずあなたを愛している」と伝えます。エックハルトは言います。「神が、まるで片方の目をえぐり出すかのように、欠点だらけの人間性を引き受けてくださるまでは、私たちは神の愛を信じることができなかった」と。
神は受肉によって、この世の一番低い席に来られました。そこには、傷つき、ゆがんだ世界の現実があります。神はそのすべてを、ご自分のからだで受け止め、いやしを与え、愛を示されます。世界の低いところこそ、神の栄光が隠れている場所です。そして実は、その低いところこそ、神の栄光が本当に現れる場所なのです。私たちが落ち込み、傷つき、「もう終わりだ」と感じるその場にこそ、神は共にいてくださり、私たちを抱きしめてくださいます。
クリスマスを通して、神はご自分がどのような方であるかを示されます。しかしそれだけではなく、神は「人間とは何か」という問いにも答えてくださいます。御子が人間となられたことによって、神はこう言っておられます。「人間は皆、いつくしみを受けるに値し、愛されるに値する存在だ」と。
私たちは誰でも、神のいつくしみを必要としています。自分の力だけでは、自分の苦しみやみじめさから抜け出すことができないからです。そして誰でも、例外なく神の愛に値します。国籍や健康状態、年齢、障害、貧富によって区別されることはありません。すべての人が、神の目には尊く、大切な存在です。神が人間となられたのは、私たちが神のいのちと愛の交わりにあずかるためです。
しかし、クリスマスは二千年前に一度起こった出来事として過去に閉じ込めてしまってはいけません。17世紀の神父で詩人のアンゲルス・ジレジウスはこう言いました。
「キリストがベトレヘムで千回生まれても、あなたの中に生まれなければ、あなたは永遠に迷ったままだ。」
御子が聖母マリアからお生まれになった出来事は、一度だけで終わる出来事ではありません。クリスマスは、私たち一人一人の心の中で、いつも新しく起こり続けなければなりません。
聖パウロは、キリスト者の歩みをこう表現しました。「キリストがあなたがたの内に形をとるまで」(ガラテヤ4:19)そして、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と告白しました。
私たちも、キリストを完全に映し出す者となるように招かれています。御子は私たちの内に受肉し、私たちの中で新しく生まれ、私たちを通してこの世界に再び来ようとしておられます。
キアラ・ルービックは、「私たちは自分の内のキリストを育てる母だ」と語りました。神の御言葉を受け入れ、それを生きるとき、キリストは私たちの心の中で成長し、私たちの生き方を通して世に現れてくださいます。そして私たちは、自分の内のキリストだけでなく、隣人の内のキリストも育てる、互いにとっての「母」となるよう招かれています。クリスマスの時に、私たちは人々の欠点や弱さだけを見るのではなく、「この人の中には、どのようなイエスの姿が現れているだろうか」と自分に問いかけてみたらいいと思います。
では、私たちはこれから何をすべきでしょうか。神が私たちに示された模範は、とてもはっきりしています。
「下へ降りなさい。」
人間には、他人より高いところに立ちたいという欲望があります。認められたい、成功したいという願いは、ある意味で自然なものです。それ自体がすべて悪いわけではありません。しかし、「もっと高く、もっと多く、もっと早く」というスローガンに押されてばかりいると、私たちは、他人を踏みつけてでも上に行こうとする危険があります。その結果、社会の中に不快な分断や不平等が生まれます。お金のある人と貧しい人、権力者と弱い人々、勝った人と負けた人(勝者と敗者)の間には、緊張と対立が生じます。
しかし、クリスマスはまったく別のメッセージを私たちに与えます。私たちに違う目標を示し、違う行動を勧めます。ただ遠くから「かわいそうだな」と低いところにいる人々を見つめているだけでは足りません。必要であれば、私たち自身がその低いところへと降りていくことが求められています。
具体的には、一つ目は、小さく貧しく、苦しむ人々、社会から忘れられた人々と共に歩もうとすることです。
二つ目は、緊張と対立の多いこの世界の中で、和解と平和を作る人となることです。主イエスは「平和を実現する人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と言われました。
三つ目は、私たちを急かし、不安にするこの世の中で、祈りと沈黙の時間を守り、御言葉の黙想や聖体の拝礼、ゆるしの秘跡を通して、心の平和とバランスを保つことです。
聖パウロはエフェソの信徒への手紙でこう勧めています。
「神の子として愛されている者らしく、神に倣う者となりなさい。」(エフェソ5:1)
私たちが倣うべき神は、人間となられ、低いところまで降りて来てくださった神です。その神に倣って生きる時、私たちは互いに一致と平和の交わりを築いていくことができます。
神が人間となられ、低いところへ降りて来てくださったこの道に、私たちも自分の歩みを重ねる時、この世の暗い夜は本当の意味で「聖なる夜」となっていきます。その聖なる夜に、真のいのちへの希望の光が、私たちの家庭に、教会に、そして世界全体に、少しずつ広がっていきますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父






