説教
主の降誕(夜半のミサ)(A年 2025/12/25)
ルカ2:1−14
私は去年9月末に韓国から日本に派遣されて、今も日本語の勉強を続けています。しかし、外国人として日本で生活して、日本語に慣れるのは簡単ではありません。小さなミスや様々な困難も経験します。それでも、私は、これは日本での生活に少しずつ慣れていく過程の一つだと思っています。
そのような自分自身の適応の歩みを振り返りながら、神である主イエスが人となられ、この世の中で生き、人間として歩まれたことも、どこか似ているのではないかと考えるようになりました。もしかすると、主イエスも人となられて、時には困難や試練を経験されたのかもしれません。もちろん、父のみ旨に反して罪を犯されることはありませんでしたが、人間として成長し、学ぶ時間を過ごし、完全な人として生きていかれたはずです。
しかし、ある人はこのように問いかけるかもしれません。「神は全能なのだから、人になることは簡単だったのではないか」と。けれども、私はそれは簡単なことではなかったと思います。なぜかというと、人間になるということは、一つ目に、人間としての苦しみや困難をすべて引き受けることを意味するからです。主イエスは、身内から「気が変になっている」「気が狂った」と言われたこともあり、またファリサイ派の人々と絶えず論争しなければなりませんでした。弟子たちは、主イエスの思いとは反対に、高い地位ばかりを求めていました。そのような弟子たちの姿、そして裏切りを前にして、主イエスは深く心を痛められたことでしょう。また、友達であるラザロの死を前にして、悲しまれもしました。主イエスは、人間としての苦しみや試練を、すべて体験されたのです。
そして、人になることが難しい二つ目の理由は、死ぬ運命を背負って生まれることを意味するからです。主イエスは受難を前にして、父にこのように祈られました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)永遠の神である方が人とならなければ、あえて死を引き受ける必要はなかったでしょう。それでも、神である方は人となられ、私たちのただ中に来てくださいました。それはいったい、なぜなのでしょうか。
私は答えのヒントを少し前、日本語学校のクラスメイト(同級生)の一言と先生のアドバイスから得ました。学校に韓国人の男性のクラスメイトがいましたけれども、彼は日本語の会話がとても自然でした。日本語での会話に苦労していた私は、彼にこう聞きました。「どうやってそんなに会話とか聞き取りが上手なの?」すると彼は、文法を体系的に学んだわけではないですけれど、付き合った日本人の彼女と一年間、ずっと日本語でしゃべっていたら自然に身についたと言ったのです。また、日本語の先生のアドバイスも、これとよく似ていました。「日本語の実力を早く伸ばしたいなら、居酒屋に行って日本人とたくさん話すといいですよ。」外国人が日本語に慣れる一番の近道は、日本人を好きになり、愛し、共に時間を過ごし、言葉を交すことなのだと気づかされました。
同じように、神である方が人となられ、人々の中にいらっしゃるのは、まさに人間を愛し、私たちと共に心を通わせ、豊かな交わりを結び、人生を共に分かち合うためなのだと思います。人間が抱える問題、人間関係、経済的な困難、悩み、自分や他者の罪、その結果として生じる痛みや悲しみ、怒り、孤独、疎外感、そして死の運命。主は人となられ、それらすべてを受け入れ、私たちと共に人生を分かち合われました。
そして、私たちを罪と永遠の死から救うために、死ぬ運命を引き受けてでも人となられた愛をもって、私たちに近づいて来られたのです。神は、十字架の死をも超える限りない愛と復活の力によって、私たちと一つになり、永遠に共に生きることを望んでおられます。
ここに、私たちがクリスマスを祝う本当の意味があると思います。神は、貧しく弱い私たちを深く愛し、私たちと交わりを結ぶために来てくださいました。私たちが死に滅びることなく、主イエスと永遠に共に生きるためです。
その愛と交わりを信じ、実際に体験した人の人生は変えられます。自分の貧しさや弱さ、罪深ささえも受け入れてくださる主イエスの愛に感謝し、自分のことだけでなく、同じように苦しみの中で生きている人、足りない人、貧しい人に、主の愛と交わりを伝えるようになります。
それは、これまで大切だと思っていたお金や財産、権力、体面、自尊心、様々な執着を手放し、主イエスが自分の心の中に生まれることでもあります。私たちと親しく交わるため、私たちを救うために来られた主の愛を信じる時、主は私たちの心の中心となられるのです。
一方で、クリスマスというと、世の中では美しく飾られたお店やデパート、ショッピングやイベントを思い浮かべがちです。誰かが冗談で言ったのを聞いたこともあります。「イエスは教会より先にデパートに来られた」と。また、恋人や家族と美味しいものを食べる日だと考えられることも多いでしょう。
しかし、主イエスがクリスマスを通して示された愛は、自分たちだけが楽しみ、満足するためのものではありません。それは、人間を救うために神の座を離れ、死の運命を引き受けて人となられた、犠牲的な愛です。そして、私たち一人一人に近づき、人生を共に分かち合う交わりの愛です。この愛は、私たちを、家族や友達、病気の人、貧しい人、困難や悩みの中にいる人、最近、あまり連絡を取らなくなった人、関係が遠くなっていた人へと向かわせます。
だからこそ、このクリスマスと年末年始に、家族や友達だけでなく、周りの人々に小さな愛を実践してみてはいかがでしょうか。神が心を痛めておられる人のために祈ること、励ましや感謝の言葉をかけること、カードを書くこと、食べ物や小さな贈り物を分かち合うこと、間違いがあれば謝り、関係の回復に努めることも、その一つだと思います。
このクリスマスが、神の愛を感じ、その愛を信じ、その愛をもって隣の人を愛する恵みの時となりますように。そして、永遠の神と一つになり、主イエスの交わりと命にあずかる祝福の時となることを、心から祈ります。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父






