説教
王であるキリスト(C年 2025/11/23)
ルカ23:35−43
今日は「王である主イエス・キリスト」の祭日を記念します。普通「王」というと、力や権力で人々の上に立ち、思いのままに支配するイメージを思い浮かべやすいでしょう。また、「勉強の王」「販売の王」「ファッションの王」など、何かで一番になった人をたたえる時にも「王」という言葉を使います。
しかし、今日記念する王であるキリストは、そのような王とは全く異なっています。なぜなら今日の福音で主イエスは、ユダヤ教の指導者たちや兵士たち、そして左側の強盗から馬鹿にされたり、笑われたり、ひどいこと言われたりして、十字架の上で命をささげられたからです。
では、なぜ私たちはイエスを王であり、主である方と呼ぶのでしょうか。王とは「治める人」です。世の王たちは、自分の利益や名誉、楽しみのために権力を使って人々を支配します。しかしイエスは愛によって、私たちに仕え、導かれます。イエスの治め方は、私たちの罪を赦すために十字架でいのちを与え、私たちを生かすためにご聖体としてご自分のからだを裂いて与え、私たちに仕え、赦し続けるという愛の治めです。主は最後の晩餐で、しもべの姿勢でペトロの足を洗われました。しかしペトロはそういうイエスを裏切りました。それでもイエスはペトロを見捨てず、赦されたのです。裏切られた痛みを越えて彼を赦す、もう一度ご自分を捧げる愛を示されました。このように、すべてを与え、犠牲にし、赦し、仕えるイエスの愛を本気で信じて受け入れるなら、私たちは自然とイエスを自分の王として従うようになります。
昔、韓国戦争の後、韓国のプサン(釜山)の国際市場という所には、多くの乞食がいました。あるうどん屋の主人は、乞食たちに無料でうどんを食べさせていたそうです。乞食が多ければ店は繁盛しにくかった(お客さんが来にくかった)でしょうが、それでも主人は彼らに食事を与え続けました。ある日、大きな火事が起き、周りの店は全部燃えてしまいましたが、そのうどん屋だけは焼けませんでした。乞食たちが服に水を含ませて火を消したからです。主人が自分のものを差し出していたので、乞食たちは感謝して主人を助けたのです。彼らにとって主人は「王」となりました。もし主人が普段から何も与えず、怒鳴ったり暴力をふるったりして「火を消せ」と命じていたら、乞食たちは彼を助けなかったでしょう。
世の支配のように、権力で人を押さえつければ、人の心を得ることはできません。イエスの愛を受け取るなら、私たちはイエスを王として従います。誰かが私を愛してくれるなら、私がその言葉を聞きたくなるのと同じです。
だから家族や友達が自分の言葉を聞いてくれないなら、自分がどれだけ相手のために犠牲や努力や赦しを実践しているか、振り返ってみる必要があるかもしれません。
今日の福音でユダヤ教の指導者たちとローマの兵士たちは、世の権力で主を十字架につけ、嘲笑し、笑われ、侮辱し、ひどいこと言われます。しかしイエスは「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られます。そして右側の強盗が悔い改め、「主の御国においでになるとき、私を思い出してください」と願うと、イエスは彼に「今日、あなたは私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と、大きな憐れみを示されます。イエスは最後まで愛と赦しによって右側の強盗の王であられました。
私たちも、そのように人のために自分を与え、犠牲にし、愛することで、主イエスの王としての務めを自分の生活の場で果たすよう招かれています。その対象は人間だけでなく、造られた物全体です。創世記で神が人に「支配しなさい」と言われたのは、自由に壊してよいという意味ではなく、自然を神の望みに合わせて守り、育てるという務めを与えられたという意味です。
今週一週間、王であるキリストが、私たちのためにすべてをささげられたことを信じ、私たちも主にならって、愛と分かち合い、奉仕と犠牲、赦しと憐れみを実践できますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父






