説教
死者の日(C年 2025/11/2)
ヨハネ6:37−40
12世紀のアイルランド、アーマーという所に、聖マラキア司教がいました。彼には、世俗的な生活を送っていた妹がいました。司教がどんなに忠告しても、彼女は聞こうとしませんでした。ところが、ある日、妹は突然亡くなってしまいました。司教は深く悲しみ、妹の罪が赦されるようにと祈り、ミサをささげ始めました。けれども、時が経つにつれてミサをささげる回数が減り、ついにはやめてしまいました。するとある夜、夢の中で声を聞きました。「あなたの妹は門のところにいるが、30日の間何ももらっていないので不満を言っている。」目を覚ました司教は、その言葉を聞いて自分が30日もミサをささげていなかったことに気づきました。彼はすぐに再びミサをささげ始めました。何日か後、夢の中で妹が黒い服を着て教会の入口で中に入ろうとしている姿を見ました。司教は祈りを続けました。さらに数日後、彼は再び夢を見ました。今度は妹が白い服を着て教会の中に入っていましたが、祭壇までは近づけませんでした。司教はまたミサをささげました。そして、三度目の夢では、妹は多くの白い服を着た人々と共に祭壇の近くに立っており、顔は喜びで輝いていました。司教は「私の祈りが聞かれた」と感謝したそうです。
今日は死者の日です。教会はこの日、亡くなったすべての人々、特に煉獄にいる霊魂が天の国に入れるように祈ります。キリストを信じるすべての人は、死んでいるか生きているかに関わらず、キリストと一体に繋がっています。
また、私たちは「すべての聖人の交わり」を信じています。「聖人の交わり」とは、天にいる聖人たち、煉獄の霊魂、そしてこの世の信者が、神さまの愛のうちに結ばれ、祈りや恵みを分かち合っていることを言います。生きている人も、亡くなった人も、お互いのために祈りや犠牲や善行(良い行い)、その中の恵みと愛をささげ、それが互いに助けとなる、という教えです。ですから、私たちは煉獄の霊魂のためにミサをささげ、祈り、犠牲、断食、施しなどを行うことによって彼らを助けるのです。これらの行いは、亡くなった家族や友人のために私たちができる、最も大きな愛の行いです。
神の無限の憐れみによって、煉獄の霊魂は清められ、天国に入ることができます。神は慈しみ深く、すべての人が救われることを望んでおられます。同時に神は正義の方でもあり、良いこと、悪いことを公正に裁かれます。もし私たちが罪を犯して世界を暗くしたなら、その分だけ祈りや良い行い、施しによって光をもたらす責任があるのです。これが、いわゆる一時的な罰=残っている償いです。罪は赦されたとしても、その責任が死後に残るなら、神の家に入る前に清められなければなりません。
煉獄の火と言われるものは、実際の炎ではなく、イエスの愛の炎とも言えます。ペトロがイエスを三度も否んだ時、イエスはペトロを見つめられました。すると、ペトロは外に出て泣きました。煉獄はまさにそのような経験です――愛しきれなかったことへの痛みと、悔い改めの涙。その清めを経て、霊魂は恐れず、何も隠さずに主の眼差しに応えることができるようになります。
また、私たちがこの世で味わう苦しみも、死後の清めに役立ちます。私たちは自分の痛みや悲しみ、不当な扱いを、主の苦しみと結びつけて神にささげることによって、主の救いの働きに加わることができます。そのようにして、私たちもイエスの復活のように、新しい命へと歩み出すことができるのです。
私たちも、私たちを愛し、救ってくださる主に希望を置き、天の国にふさわしい者となるよう努めましょう。そして亡くなったすべての人を思い起こし、ミサや祈りをささげ、犠牲や施しを通して彼らを助けることができますように。主の憐れみと愛によって、すべての亡くなった人々が天の国の光の中で安らかに憩うことができますように。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父






