説教
年間第29主日(C年 2025/10/19)
ルカ18:1−8
今日の福音には、「不正な裁判官とやもめのたとえ」が語られています。このたとえの中心のメッセージは、「失望せずに、絶えず祈ること」です。たとえ不正な裁判官でも、しつこく訴えるやもめの願いを、ついには聞き入れました。まして、公正な裁判官であられる神、そして私たちを限りなく愛しておられる主が、昼夜、泣きながら願う人々の祈りを、聞いてくださらないはずがありません。ですから、私たちは失望せずに、祈り続けるよう招かれています。神は、私たちの祈りを面倒とは思われません。むしろ、私たちが願うことを望んでおられるのです。しかし、私たち自身が疲れてしまったり、気持ちが変わったりして、祈らなくなることがあります。
では、どうすれば絶えず祈る力を得ることができるでしょうか。それは、神への信頼と希望を持つことです。私を一番愛し、よく知っておられるのは、私自身ではなく、神です。神は、私たちにとって一番良い時に、一番良い方法で、一番良いものを与えてくださる方です。マタイによる福音書にはこう書かれています。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして、天の父は、求める者たちに良い物をくださらないはずがあろうか。」(マタイ7:11)神が与えてくださるもの、そして神が私たちのうちに成し遂げようとしておられることこそ、私たちの救いに最もふさわしいものです。そのような神への信頼と希望を持つ時、私たちは失望せずに、祈り続けることができます。
反対に、神への信頼や希望がない人は、祈り続けることができません。自分の思う通りに祈りが聞かれないと、祈るのをやめてしまうからです。多くの人が、「なぜ神は私の祈りを聞いてくださらないのか」と疑います。四世紀の修道士エヴァグリオス・ポンティコスは『祈りについて』という本の中でこう書いています。「あなたが求めるものを、すぐに神から受け取れないとしても、悲しんではいけません。それは、あなたが祈りの中で神と共にとどまることによって、神がもっと良いものを与えようとしておられるからです。」
時々、私たちは祈る時、自分の言葉だけを言って終わることがあります。けれども、祈りとは神との対話であり、愛を分かち合う時です。ですから、祈りの中で神の声を聞き、その応答を待つ時間を持つことが大切です。たった一度祈って願いが叶わない時、「神は私の祈りを聞いてくださらない」と思うこともあります。しかし、今日の福音が語るように、祈りの実りを得るためには、叶うまで根気よく祈り続けることが必要な場合もあります。聖アウグスチヌスは『書簡集』の中でこう言っています。「神は、私たちの希望が祈りの中で清められることを望んでおられる。そうすることで、私たちは神が与えようとしておられるものを受け取る準備ができる。」つまり、祈りを続けることによって、私たちの心は清められ、主に頼る信仰が深まるのです。
また、祈りが聞かれるためには、正しい願いを持たなければなりません。自分の欲や他の人への悪意に基づいた祈りは、主の望みではありません。さらに、祈りを実現するために、自分も行動し、協力する姿勢が大切です。善を願いながら悪を行ったり、家族の平和を祈りながら争いを起こしたりすれば、神が祈りを聞かれても、それが実を結ぶことは難しいでしょう。
祈りは神との対話であり、愛と交わりの時です。そして、祈りを通して私たちは、神の御言葉と御心を知り、それを行う力をいただきます。真に祈る人は、祈れば祈るほど、神が変わるのではなく、自分が変わることを体験します。自分の思いではなく、主の御心に従うようになります。ときに、自分の願いが正しくないこともあります。主の前で省みる祈りは、その願いを正してくださいます。祈りは、主の恵みを受け入れるために、私たちを整えてくださる力があります。ですから、祈る時、「私の人生は神中心なのか、それとも自分中心なのか」を見つめることは、霊的な成長に役に立ちます。
私たちは、自分の祈りの意向をよく見直す必要があります。「その祈りの願いは主の望みと一致しているのか。それとも、自分の欲から出る利己的な願いなのか。」祈りにも省察(内省)が必要です。真に祈るなら、私たちは少しずつ主の御心に近づいていきます。主と語り合い、その心とまなざしを自分の中に受け入れるからです。正しい判決を求めたやもめのように、私たちも正義と愛に満ちた神の御心を願い、その御心に従って生きる決意を新たにしましょう。
愛と憐れみに満ちておられる神に信頼し、希望を持って祈り続けましょう。そして、私たち皆のために主の御心が成されるように願い、その御心に従う真実な信者でありたいと思います。
カトリック上福岡教会 協力司祭 イ・テヒ神父