カトリック上福岡教会

説教

復活の聖なる徹夜祭(A年 2023/4/9)

マタイ28:1−10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアたちは、十字架の後に主のおからだが納められた墓を訪ねました。彼女たちが墓に着いた時、神は、「主の天使」を通して、彼女たちに次のように告げました。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」

「恐れることはない。」

しかし、マグダラのマリアたちは、この時、何を「恐れた」のでしょうか。主イエスが納められたはずの墓が空だったことでしょうか。主を失った後の彼女たちの生の不安でしょうか。

同じ出来事を伝えるルカは、マリアたちはこの時、「主の天使」を見て、「恐れて地に顔を伏せた」と伝えています(ルカ24:5)。明らかにマリアたちは、「主の天使」を通して、今、彼女たちにお会いくださっておられる神を「恐れた」のです。そのマリアたちに、それゆえ、神はおことばをおかけくださったのです。「恐れることはない」

この主のみことばに、わたしは胸を突かれました。このわたしは、どうなのか。神のみ前に「恐れて地に顔を伏せ」、神に「恐れることはない」と言っていただかなければならないほどに、神を「恐れて」いるのだろうか。果たしてわたしはそのように神を、そして神のみを、恐れて生きてきたといえるだろうか。

第二次大戦中、スイスの牧師カール・バルトが、クリスマスに語った説教が残されています。説教の題は『恐れることはない』。この題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母とされるマリアに告げた「マリア、恐れることはない」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きの中で、恐怖と不安に心が動転している当時のスイスの人々に向けて語られた説教でした。バルトは、この説教を次の言葉で結んでいます。

「もし、わたしたちが真に神を、神のみを恐れるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対する恐れから自由になる。しかし、もし神を、神のみを恐れることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものを恐れて生きるほかはない。」

もし、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」と言うこと自体に、思いも及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という、信仰者という以前に、人として最も大切なことを忘れたままに、神を信じるとは言いつつ、現実には、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、わたしは生涯を空しく過すことになってしまったかもしれませんでした。

愛してやまなかった主イエス。頼りにし切っていた主の十字架の死。主イエスのご復活の朝早く、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、マグダラのマリアたちの心を占めていたのも、神への恐れというよりも、彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れであったかも知れません。

しかし、今、神への恐れの内に、神以外の一切のものへの恐れから解き放たれたマグダラのマリアたち。マタイによる福音は続けて、「神を恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」彼女たちの「行く手に、復活の主イエスご自身が立っておられた」と伝えます。その時、「イエスの前に、恐れひれ伏した」マリアたちに、ご復活の主イエスご自身が言われました。

「恐れることはない。」

神は、神のみを「恐れる」者から、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。そして、この神こそ、主イエスにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方です。この神こそ、主イエスにおいて十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。そして、今、神であるこの方が、十字架の死を越えてわたしたちの前に立っておられる。それが、主イエスの復活です。

「マリア、恐れることはない。」

マグダラのマリアだけではありません。これは皆さんお一人おひとりへのご復活の主イエス・キリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。

「恐れることはない。」 ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。

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