説教
受難の主日(枝の主日)(A年 2023/4/2)
マタイ27:11−54
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「本当に、この人は神の子だった。」
受難の主日(枝の主日)の今日まで、ご一緒に福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴って、主と共に、福音に語られた人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。
主イエスの出会われたひとり一人の辿ってきた人生は異なっていました。その中には素直に、そして心から主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、主を疑い、なお主イエスを神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。
あるいは、今日の福音のエルサレムの群衆のように、一度は主イエスを救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主を「十字架につけよ」、と叫んだ人々もいました。これらの人々の内、一体誰がこのわたしなのでしょうか。実はそのすべての人々がこのわたしである、あるいはこのわたしであった、というべきかもしれません。
使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と告白できない」(Iコリ12:3)と教えています。それは同時に「聖霊は、このわたしをさえ『イエスを主と告白する』信仰へと導いてくださった」との、まことの信仰を求めて苦しんだ過去のあるパウロ自身の、聖霊によって働かれる神への感謝と感動の告白でもあるはずです。わたしたちも、今、喜んで主イエスを信じさせていただいているというのであれば、それは偏に聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きであると思います。
事実、主イエスを信じさせていただくと言うことは、わたしたちの知恵や力によるのではなく、聖霊による他ないことです。聖書によれば、神に対する最も深刻な罪とは、何かしらの道徳的な悪というよりも、自分の知恵や考えに惑わされて神を疑うことです。なぜならば、その結果、わたしたちは主なる神を心底から信じることができず、神なる主に自分を委ね切ることができなくなるからです。神を疑うこの罪に対しては、わたしたちは聖霊に助けていただく他には、なす術がありません。主イエスの時代のファリサイ派の人々がそうでした。彼らは、約束されていた救い主メシア・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々でした。しかし、彼らは主イエスにお会いした時に、彼を救い主キリストと受け入れることができませんでした。主を疑ったのです。主が、自分たちの期待や思惑とは違って見えたからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。
そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちの罪の赦しのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス・キリスト。四旬節の間中、主とともに、たくさんの人々に出会い続けてきた中で、実は、わたしたちは、わたしたち自身に、また同時に主イエスご自身に、繰り返しくりかえし出会わせていただいて来たのではなかったでしょうか。主を疑うわたし。しかし、そのようなわたしのために涙し、主を疑うわたしの罪を一身にご自身の十字架として背負い、背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。
主イエスを疑うが故に、かつては主に捧げる何物も用意できなかったこのわたしのために、父なる神は御子キリストにおいてご自身をわたしへの捧げものとして用意してくださったのです。主はそのようなわたしのために、御子キリストにおいて、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで、捧げ尽くしくださいました。それほどまでにしてこのわたしを救ってくださいました。もうこれ以上、わたしは神を疑うわけにはゆかないのです。
「信仰の神秘」。それは、主なる神ご自身が、御子キリストの十字架においてわたしたちの疑いの罪を破り、わたしたちを、もはや主を疑いえない者としてくださったという事実です。それは偏に聖霊の御働きです。そのようにしてまでして神はわたしたちに『イエスを主と信じる』信仰をお与えくださった、むしろ、主がわたしたちの「信仰」そのものとさえなってくださったのです。聖霊は、神が主イエスにおいて成し遂げてくださった救いを、わたしたちの身の事実としてくださるのです。
自らの思惑が捨て切れず神を疑うこのわたしが、主イエスを救い主キリストと信じさせていただくためには、主の十字架と聖霊の御恵みによる他ありませんでした。ここに初めてかつ最終的に、わたしの神への疑いが破られ、神を信じ、自らを神に委ね切り、神に捧げつくして生きる新しい命が、このわたしに与えられたのです。
ごミサでいただくのは、「信仰の神秘」である主イエス・キリストご自身です。それは、わたしたちの罪の赦しのために十字架においてご自身を父なる神に捧げてくださった主ご自身の御からだと御血です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。