カトリック上福岡教会

説教

四旬節第2主日(A年 2023/3/5)

マタイ17:1−9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

わたしの前任地の川越教会の旧担当司祭方、ローランド神父、ラバルト神父、シャール・アンドレ神父、ワレ神父が帰天されて年を重ねました。川越在任中、多くの方々から神父さま方についてお聞かせいただきました。笑顔を絶やさず、誰にも親切であられた神父さま方が、いかに大きな存在であられたかを、くり返し教えられました。

わたしたちは人との関係が親しさを増して行く中で、その方の真実の姿を、つい見過ごしてしまうようになる危険がないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活を共にさせていただく中で、ともすれば主への自分たちの期待や願いや思いが先に立ってしまうような誘惑があったのではないでしょうか。

その弟子たちの目に、父なる神は、彼らが主イエスと共に最後にエルサレムに上る直前に、主が実はいかなる方であるのかをはっきりお示しくださいました。主は、たんに優れた人生の教師、偉大なる義人などではないからです。そのために父なる神は、主と共にペトロたちを高い山に登らせ、彼らに御子の光り輝く真実のみ姿を目に見ることをさえお許しくださいました。それが今日の福音です。

それに加えて、父なる神は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の主イエスの弟子たちの耳に、御子を指し示して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、誰の耳にもはっきりとお語りくださいました。

同時にその時、ペトロたちの目の前で、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセと共に現れて、主イエスご自身と語り合っておられたことをも彼らは「見た」と福音は伝えていました。ただし、主イエスはこの時、モーセとエリアと共に、何を語り合っておられたのでしょうか。

同じ出来事を伝えるルカによる福音は、それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えています。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期。このことばから、エルサレムでの主イエスの最後、すなわち主のご受難と十字架の死を思います。

確かに、主イエスは、エルサレムで最後、すなわち十字架の死を遂げられます。しかし、実は、ルカの福音で「最期」と訳されている言葉は、元のギリシャ語では、単に「終わり」という意味の言葉ではなく、「過ぎ越し」(エクソドス)と言う言葉なのです。つまり、主イエスが、モーセとエリアと共に語りあっておられたのは、主の十字架のみならず、主の過越の出来事の全体であったということです。

もちろんそれは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主イエスの十字架の死を内に含みます。しかし、主の十字架の死に終始しません。「主の過越」。それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死によって死に打ち勝ち、さらに、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主イエス・キリストの過越の出来事の全体」です。

「主の過越の全体」を以て、主イエスはわたしたちの「救い」を「成就」してくださいます。第一に、主はご自身のご受難と十字架の死によって、わたしたちの罪を贖ってくださいます。主が、わたしたちの罪の一切をご自身の十字架として負い抜いてくださる。それによってしか、わたしたちにとって罪を赦される道はないからです。

主イエスのわたしたちへの愛は、ご自身の十字架の死の犠牲においても、終わることはありません。主は十字架の死の後、わたしたちのために、「復活」してくださいます。十字架の死を越えて、主は復活され、ご自身の「いのちの息」である「聖霊」を、わたしたちに吹き込んでくださるためです。ひとえにわたしたちへの愛ゆえに。

それは、汚れた霊・罪によって神から離れていたわたしたちを「聖霊」によって聖め、聖くされたわたしたちを、ごミサでの主イエスご自身の奉献に招き加えて、わたしたちをも「神への聖い捧げもの」として、再び神の御許に返してくださるためです。

「主の過越」。それは、罪に死んでいたわたしたちを十字架によって罪から贖い、さらに復活によってわたしたちに聖霊を注いで新しい者とし、遂には神に帰るいのちをわたしたちにお与えくださるための、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエス・キリストの過越」。それは、神なる主の愛による「主の十字架からご復活のいのちへと、主に結ばれたわたしたち自身の過越」でもあるのです。それが、主がエルサレムでわたしたちのために成し遂げてくださる恵みの出来事の全体です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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