カトリック上福岡教会

説教

四旬節第4主日(A年 2023/3/19)

ヨハネ9:1−41

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、一人の「生まれつき目の見えない人」の目を開いてくださいました。しかし、ヨハネによる福音は、主によるこの癒しの奇跡を伝えるだけで物語を終えてはいません。物語は続きます。その後暫くして、主は再び彼に出会われ、「あなたは人の子を信じるか」と問われたと伝えています。ここで、「人の子」という旧約以来の特別な言い方は、この時代には「来たるべき救い主キリスト」を意味していました。

「あなたは人の子を信じるか。」この主イエスの問いに、主によって目を開いていただいた人は、即座に、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。その彼に、主は次のように仰せになりました。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

この主イエスのことばに、彼は、「『主よ、信じます』と言って、『ひざまずいた』」、と福音は伝えています。主のみ前に「跪いた」とは、主に対し、「膝を屈め、首(こうべ)を垂れ、合掌・礼拝した」ということでしょう。事実その時、彼は主のみ前に跪いて合掌礼拝する他なかったと思います。「生まれつき目が見えない」という、それまでの長く、重く、苦しかった彼の全生涯を通して、ただひたすらに待ち望んできた「人の子」つまり「救い主キリスト」を、彼は、確かに「見た」からです。

「キリストを見た」。実はこの時こそ、真実に「彼の目が主イエスによって開かれた時」であったと思います。主イエスを、救い主キリストとはっきりと「見させていただいた時」。同時に、それは彼にとって主イエスのみ前に「跪いて、まことの神を初めて礼拝させていただいた時」、すなわち神に見(まみ)えた時でもありました。

「キリストを見る」それは「キリストにおいて神を見る(神にまみえる)」ということです。旧約聖書が繰り返し語るように、わたしたち罪人、「罪によって汚された目」のわたしたちには、「聖なる神を見る」ことは本来赦されることではありません。

主イエスによって、目を開いていただく。それは主によってわたしたちの罪が赦され、聖なる神のみ前にわたしたちを再び聖別していただくことに他なりません。そのことなしに、わたしたちが「神を見る(見える)」ことはできないからです。そうであれば、今日の福音が語る奇跡の物語は「生まれつき目の見えない人」に限っての物語つまり他人事ではないはずです。それはわたしたちの物語でもあるはずです。

「キリストを見る(神に見(まみ)える)」。カトリック教会は、この言葉で、ミサにおけるご聖体のキリストとの出会いの深い体験を言いあらわして来ました。興味深い事に、日本語の「見(まみ)える」という言葉が、「見る」と「会う」とを重ねて意味するように、ギリシャ語を始め西洋の言葉でも、例えば、英語の ”I see Christ ” のように、「キリストを見る」と「キリストに見(まみ)える(会う)」とは同じ言い方を致します。

ごミサは、「キリストと出会わせていただく時」です。そこには、主イエスに招かれて、主にお会いできた喜び、再び主のみ許に、しかも主の食卓に帰ることを赦された安堵の思いがあります。しかし同時に、ごミサは、畏れを以て「キリストを見させていただく時、神を見る者とさせていただく時」でもあります。そこには、主のみ前に露わにされた罪に対するわたしたちの深い懺悔と、主によって罪赦された感謝があります。「畏れと感謝を以て主のみ前に跪かせていただく時」、それがごミサです。

ところで今日の福音は、主イエスがこの「生まれつき目の見えない人」に出会われた時の、弟子たちの主への奇妙な問いかけで始められていました。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」彼らの問いに主は、次のように仰せでした。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

主イエスのこのことばには、先の問いを主に問うたユダヤ人の弟子のみならず、日本のわたしたちを含む世界のすべての人々の宗教的常識、むしろ宗教的錯誤を一気に、かつ完璧に覆すだけの力があると、わたしは信じます。このような宗教的錯誤の犠牲になって、どれだけ多くの障害や困難を負う方々が、すでに十分である彼らの苦しみに加えて、罪責感という重荷をさえ負わされて来たことでしょうか。

主イエスは、この時「生まれつき目が見えない人」のみならず、その人に対して謂(いわ)れ無き罪責感をさえ強いてきた、無知なわたしたちのために悲しみ涙されたに違いないと思います。主が「救い主」として来てくださったのは、実に、このわたしを含むすべてのためでした。「神の業がわたしたちすべてに現れるために。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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