カトリック上福岡教会

説教

四旬節第3主日(A年 2023/3/12)

ヨハネ4:5−42

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

他の何ゆえでもないと思います。この言葉を主イエスに告白したペトロと同じく、やむにやまれぬ思いで、わたしたちはこのごミサに集まってまいりました。

ごミサに集まる。もちろんそれは、ご復活の主イエス・キリストにお会いさせていただくためです。ご復活の主は、わたしたち一人ひとりに、仰せくださいました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」

わたしたちには、ご復活の主イエスのこのお約束のことばだけが頼りです。また、悩みや苦しみに満ちた日々の生活を生きるわたしたちの、唯一の望みです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたともにいる。」事実、このおことばほどの確かな慰めは他には決してありません。これは、復活された主イエスのおことばだからです。この方は、すでに十字架によって死に打ち勝っておられます。主は、わたしたち一人ひとりの苦しみ、悩みと罪との一切を、わたしたちに代ってすでに負い切ってくださり、十字架でそのすべてを贖い、その上で、復活してくださいました。ご自身の死をさえ超えて、わたしたちといつも「ともにいて」くださるために。

ご復活の主イエス・キリストのうちに、わたしたちのすべての問題が、すでに解決されています。だから、苦しい時、本当に孤独な時、どうしたらよいかまったく分からなくなってしまった時、わたしたちは、他の誰でもない、主にお会いしたいのです。ご復活の主に、お会いしたいのです。丁度、長い病気に苦しみ抜いていた女性のように。わたしたちも、主の御衣の裾にでも触れさせていただきたいと願います。

あるいは、今日の福音のサマリアの女性のように。酷暑の中の水汲みのように、報われることのない、また、いつ終わるとも知れない繰り返しのような日々の中で、誰にも心を留められることもなく、誰にも心を開く事も出来ず、やり場のない、また癒されることのない肉体の疲れと、魂の渇きの中で、体の芯から魂を癒してくれるいのちの水を求めて、わたしたちは救い主イエスを求めます。

わたしたちは、主イエスに「すがらせていただきたい」、「信じさせていただきたい」、「礼拝させていただきたい」のです。それは他でもない、自分の一切を、自分で自分を持てあますようなわたしたちを、主に「委ね切らせていただきたい」からです。「信じる」とは、そして「礼拝する」とは、「委ね切る」ことだからです。そうする他ないのです。だからサマリアの女性は、「礼拝」について主に尋ねるのです。きれいごとでは無い。彼女は主にすがり、主に自分をお委ねするほかなかったのです。

わたしたちは、福音の語る長い病気に苦しめられた女性の苦しみがよくわかります。サマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女たちは、わたしたちだからです。ご復活の主イエスにお会いさせていただきたい。福音の女性たちの願いは、わたしたち一人ひとりの願いです。わたしたちも、この同じ方に自らを委ねさせていただきたいのです。お委ねするほかないのです。ご復活の主のほかに、わたしたちの解決はどこにもないからです。わたしたちのために、すでに死に打ち勝たれたこの方をおいては、わたしたちの新しいいのちは、どこにもないからです。

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」ペトロの思いのたけの言葉のように、わたしたちはこの一つの思いで、今ごミサに集まって来ました。一週間の全てを携え、疲れた体、乾いた魂を携え、今ごミサに集まって来ました。ここで、このごミサで、確実にご復活の主イエスにお会いさせていただけるからです

「主よ、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。癒されることのない魂の渇きの癒しを求めて、井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今、ここに、ご復活の主イエス・キリストがおられるからです。それが、ごミサです。

今、ここに、ご復活の主イエスがおられる。ご聖体の内に。ご聖体にまでご自分を低く小さくされてわたしたちにお会いくださるために。そのようにしてまで、わたしたちにご自身のいのちをお与えくださるために。そしてご復活の主のいのちは、わたしたちの内で泉となり、永遠に変わることなくわたしたちを潤し続けてくださる。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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