説教
年間第5主日(A年 2023/2/5)
マタイ5:13−16
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「あなたがたは地の塩である。…あなたがたは世の光である。」
先の主日から四旬節前まで主日のごミサで、マタイの伝える主キリストの「山上の説教」からお聞きします。「主の山上の説教」。しかし、ここで主キリストがなさるのは、たんに教えを説くのでは無く、みことばすなわち主ご自身をくださることです。
ところで、「山」に上ってわたしたちにみことばをくださる主キリストは、旧約の偉大な預言者モーセを想い起こさせます。モーセも、出エジプトの後、「山」に上って神からみことばを受けました。「(モーセの)十戒」と呼ばれてきました。ただし、『聖書』は、「神はこれらすべてのことばを告げられた」(出エジプト20:1)と、それを「十の戒め(教え)」」とは言わず、「神のすべてのことば」としています。「山」に上ったモーセは、神から「すべてのみことば」を受け、それを、人々に伝えたのでした。
今、主キリストは、かつてのモーセのように「山」に上られます。しかし、主はモーセと同じではありません。主は、ご自身でお語りになられます。ご自身の権威と力において。主は神の「みことば」そのもの、「すべてのみことば」そのものだからです。
神のみことばそのものであられる主キリストは、たんに「教え(戒め)」を説くのでも、ユダヤの律法の教師のように神のみことばについて教えるのでもありません。主は、神のみことばをわたしたちにくださるのです。それは、神のみことばそのものであるご自身をわたしたちにくださることです。それが主の「山上の説教」です。
ただ、主キリストの時代のユダヤでも、律法学者たちのように、主のみことばを、単に「教え(戒め)」としか聞くことができず、それを自分たちの知恵や価値観で判断し、その「教え」を受け入れることはできないとした人が大勢いたことも事実です。
しかし、福音はその彼らのことを、単純に主キリストの「教え」を拒んだ、とは言いません。福音は、彼らは「神のみことば」である「主を十字架につけた」と言います。主のみことばをいただかないことは、たんに神の「教え」を聞かないというのではなく、「神」を「神」としていただかないということだからです。なぜなら、主キリストのみことばは、たんなる「教え」ではなく、神ご自身だからです。
「受肉された神のみことば」であられる主キリストのみことばは、わたしたちに対して、「天地の創造主であり、全能の父である神ご自身」の「権威と力」をもって、「聖霊」によって確実に働かれます。
旧約聖書の冒頭に伝えられていることを、思い出してください。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」創造主である神において語ることと創造すること、すなわち神のみことばと神のみ業は一つです。そして、主キリストは、「万物を創造される神のみことば」ご自身です。使徒ヨハネが、その福音に、「初めにことば(みことばなる主キリスト)があった。ことばは神であった。万物はことばによって成った」と証言する通りです。主の「山上の説教」は、「教え」ではなく、「主のみことば」・「聖霊において働かれる神のみことばである主キリストご自身」です。
主キリストのみことばは、決して、わたしたち被造物の思いや知恵によって左右されません。主のみことばは、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と言われるように、それ自体、無から有を創造する神のみことばなのです。主のみことばは、ご自身のみ旨に従ってすべてを新たに創造される、神ご自身です。
事実、今日の福音で、主キリストは、次のように仰せでした。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」
ここで、主なる神キリストはわたしたちに、「あなたがたはわたしの戒めを守って地の塩、世の光になるように努めてほしい」と教えておられるわけではありません。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である」と仰せです。これが主のみことばです。そして主のみことばは、主がお語りになられた通りに、聖霊によって聞くわたしたちを「地の塩・世の光」として新しく創造してくださいます。
四旬節前まで、主キリストの「山上の説教」、すなわち「主のみことば」を、ご一緒にお聞きして参ります。天地万物を創造する主のみことばによって、わたしたちは新しく創造され、造り変えられて行くのです。これが、わたしたちカトリックの信仰です。
「おことば通りにこの身になりますように。」マリアさまのように、神のみことばである主キリストを、聖霊とともに、ご聖体においていただく。それがごミサです。それが「主からみことばをいただく」ということです。主のみことばは聖霊において働きわたしたちの内に実を結んでくださいます。それが、救われるということです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。