カトリック上福岡教会

説教

年間第7主日(A年 2023/2/19)

マタイ5:38−48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)

日本語訳では主キリストは、このことばで今日の福音を結んでおられました。これを聞いて皆さんはどのように思われたでしょうか。主は端(はな)から不可能な要求をしておられるのでしょうか。そもそも主は、そのようなことをわたしたちに求めておられるのでしょうか。(実際、ギリシャ語の英訳、”You will be perfect as your heavenly Father is perfect”. は命令文ではなく未来の現実を語り、日本語訳とはニュアンスが違います。)

今週水曜日の灰の水曜日から始まる四旬節に備えて、わたしたちは、マタイによる福音の伝える主キリストの「山上の説教」から続けてお聞きしてきました。今日の福音もその一節ですが、先の主日の福音で、主は次にように仰せでした。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」しかし、どこに、あるいは誰に完成するのでしょうか?

ここで主キリストが「律法や預言者」と言われるのは、モーセと彼の後の預言者たちを通して神がご自分の民に語られた「神のみことば」のことです。かつて、モーセは「神のみことば」をお聞きするために「山」に上りました。「山上の説教」。主キリストも、今、「山」に上られます。ただし、主キリストはモーセと同じではありません。

受肉された「神のみことば」である主キリストは、御自らわたしたちにみことばをくださいます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と、主は仰せです。主は、「律法と預言者」、すなわち「神のみことば」を成就するために来てくださいました。だれに、でしょうか。もちろん、わたしたちに。「神のみことば」であるご自身そのものを、わたしたちにお与えくださるために。

そうであれば、主キリストの「みことば」にお聞きすることと、律法学者の「教え」を聞くこととは、まったく異なることです。今日の福音で、主は次のように仰せでした。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。…求める者には与えなさい。…あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

これは、律法学者の「教え」を遥かに超えています。律法学者は、「隣人を愛し、敵を憎め」と「教え」ました。これに対し主キリストは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰せです。ただし、注意したいことがあります。主キリストが仰ったことは、すべて主が、ご自身でなさったことです。主ご自身の内に、すでに、成就しておられることです。同じことを、わたしたちに成就させてくださるために。(冒頭の主キリスト言葉のギリシャ語の英訳 “you will be perfect” 参照)

そうであれば、わたしたちにとって主キリスト(福音)に聞くことは、「神のみことばである主」ご自身を、感謝していただくことに他なりません。それがごミサです。

「神のみことば」と申します。創造主なる神にとって、「みことばをお語りになられるる」ことと、「語られたことをその通りに実現される」ことは、一つのことです。旧約の冒頭に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」といわれています。

そして「受肉された神のみことば」・主キリストは、この「神のみことば」そのものです。そうであれば、主に聞くとは、「神のみことばであられる主」を感謝していただいて、主にすでに成就しておられる「神のみことば」の通りわたしたちが新しく創造され造り変えられてゆくことです。ただし、それはどのように、なのでしょうか。

「神の子」である主キリストの似姿に。「主のみことば」をいただいてわたしたちが「主の似姿」つまり「主と同じ神の子」「主の兄弟姉妹」に、造り変えられてゆく。今日の福音で、主は仰せでした。主が、わたしたちにお語りくださるのは、わたしたちが「天の父の子・神の子となるためである」それこそが、わたしたちの救いです。

「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

この主キリストのみことばを聞くわたしたちに、主がお求めになっておられることはただ一つです。「おことば通り、この身になりますように」と、主のみことば・主ご自身にわたしたちをお委ねさせていただくこと。聖母マリアさまの信仰です。聖母マリアさまのように、主のみことばを、つまり主ご自身をいただいて、主によって、主の似姿に造り変えられて行くわたしたち自身を、喜んで受け入れることです。

皆さんは、律法学者から教えを聞くように、主キリストから教訓を聞くためにミサに来られたのでしょうか。そうではない。主のみことば、すなわち主ご自身をいただいて「神の子」である主の似姿とされるために、ミサに来ておられるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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