カトリック上福岡教会

説教

年間第3主日(A年 2023/1/22)

マタイ4:12−23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

マタイによる福音は、主キリストの福音宣教を、今日の第一朗読でお聞き致しましたように、神が旧約の「預言者イザヤ(イザヤ9:1)を通していわれていたことが、実現するためであった」と告げていました。

主キリストが、わたしたちの「光」として来てくださった。これが、福音です。降誕日にお聞きしたヨハネによる福音も、「光は暗闇の中で輝いている。そして、暗闇は光に(死はいのちに)勝たなかった」と、力強く主キリストを証ししていました。

確かに、闇がいかに深く、重くとも、また闇がどれほど長く続いていたとしても、一筋の「光が射し込め」ば、そこに闇は終わります。しかも、預言者イザヤは、実は主キリストは一筋の光ではなく、「大きな光」として来られる。つまり、闇の支配を「完全に」終わらせる方、として来てくださると告げていました。

マタイの言う「暗闇に住む者」・「死の陰に住む者」とは、他人ごとではなくわたしたちのことではないでしょうか。しかし、マタイが引用した旧約の預言者イザヤにとって、「暗闇あるいは死の陰に住む者」とは、直接には一体誰だったのでしょうか。

旧約のイザヤ書の1章から39章までに記録された、預言者イザヤを通して語られた神のことばを直接聞いたのは、紀元前8世紀の半ばから8世紀末にかけての神の民イスラエルでした。その時代、すでに南北に分裂していた神の民は、それぞれ別の異邦の民と結びついて互いに争い、結果的に当時の大国アッシリアによって神の都エルサレムは蹂躙されることになります。このような、混乱と国力の衰弱は、紀元前722年の北王国の滅亡、さらには、イザヤ書の40章以下に記録される、紀元前6世紀の南ユダ王国のバビロン捕囚に帰結します。

このような神の民イスラエルが、預言者によって、「暗闇に住む者」あるいは「死の陰に住む者」と呼ばれていたのです。彼らの「暗闇あるいは死の陰」とは、彼らが神のみことばに聞くことを拒んだ罪、すなわち不信仰によって、自ら招いた結果でした。同時に、その罪の結果の解決は、すでに異邦人をも巻き込んで、最早、神の民である彼ら自身の力を遥かに超えたものとなっていました。

実は、これこそ、罪の恐ろしい姿かもしれません。罪とは、自ら招いたものでありながら、自らでは解決不能な結果を招くからです。丁度、暗闇に迷う者が、もがきさ迷えばさ迷うほどその道を見失うように。しかし、暗闇でいかにもがいても、彼らが自分で「光」をもたらすことは出来ません。その彼らに「光」が、しかも驚くべき事に、彼らが背いた神から与えられる、とイザヤは告げます。

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

これは、罪なる彼らにとって当然のことではあり得ません。そればかりか、彼らの罪によって深く傷つけられた神ご自身にも大きな犠牲を強いることです。

マタイによる福音は、この預言者イザヤによって語られた神のみことばを受けて、主キリストこそ、罪なるわたしたちに神がお与えくださる「光」であると告げます。わたしたちの罪の帰結である「闇」と「死の陰」を十字架において一身に負う、十字架を通して復活の「光」をもたらしてくださる主キリストこそ、罪なるわたしたちの「闇」を終わらせ、わたしたちを「死の陰」から救いだす、唯一の「光」である、と。

預言者イザヤのこのことばの引用によって、主キリストの福音宣教を語り始めたマタイによる福音が、その主の宣教のご生涯を、主ご自身の十字架の死と復活の証言で結んでいるのは、この故です。

今日のマタイによる福音は、預言者イザヤのことばに続いて、主キリストご自身の福音宣教の始めのことばを伝えていました。

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

「悔い改めよ。」それは、わたしたちの全身全霊で主キリストに向き直ることです。それは「暗闇に住む民が大きな光を見」「死の陰の地に住む者に光が射し込」むことの証し人とされるためです。「神の国」が来た。十字架とご復活において、闇を完全に終わらせる「光」なる主キリストのご支配が、今、始められた。それが福音です。

「光は暗闇の中で輝いている。そして、暗闇は光に勝たなかった。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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