説教
抱いたキリストによって抱かれる ―新しい年をマリアさまとともに―
1/1 神の母聖マリアさまの祭日の黙想
ルカ2:16−21
クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主キリストを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、
「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」
と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主キリストが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。
羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主キリストの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、人の思いや考えを超えています。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8、9)
預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主キリストについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主キリストを十字架につけてしまいます。
マリアさまは違います。主キリストのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。
母として主キリストを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主キリストは不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主キリストについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。
なぜなら、マリアさまは主キリストを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。
実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今年89歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。
母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主キリストと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主キリストの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子・主キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主キリストに委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。
新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主キリストへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。
教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主キリストをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主キリストをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。
「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主キリストの愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。
わたしたちは、神の母マリアさまとともに新しい年を迎えます。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。