カトリック上福岡教会

説教

年間第23主日(C年 2022/9/4)

ルカ14:25−33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

先の主日に、主キリストとファリサイ人との食卓の様子からお聞きしました。そこでは、その直前に主が深く嘆かれたエルサレムの傲慢の罪が露わにされていました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムは、かつても彼らに「神のことば」を携えて遣わされた「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」して来ました。主キリストは、ご自身のエルサレム入城を控えて、エルサレムが再び、しかも決定的な仕方で、この罪をくり返すことになることを知っておられます。その時には、実に、人となられた「神のことば」である主キリストご自身、に対して。

エルサレムの罪。それはひとえに傲慢の罪です。「食卓の主」である主キリストを差し置いて、自分のために食卓の上席を奪い合おうとするエルサレムの人々。主キリストご自身から「神のことば」の食卓に招かれながらも、「神のことば」である主に聞こうとせず、主を押しのけ、終には主を殺しさえするエルサレム。

「言っておくが、あの招かれた人たちのうちで、わたしの食事を味わう者は、一人もいない。」

これが、ファリサイ人との食卓で、主キリストがお語りになられた最後のおことばでした。主の言われる「わたしの食事」とは、「主の晩餐」すなわちごミサでの「主キリストご自身の御からだと主ご自身の御血」であることは、言うまでもありません。

ルカによる福音において、主キリストがエルサレムにお入りになられる時は、すでに間近に迫っています。エルサレム入城後、主は、過越祭を祝う人々の喧騒を余所に、人知れず、ある家の二階屋で、十二人の弟子たちだけと「最後の晩餐」の食卓を囲まれ、わたしたちにごミサを残してくださいました。続いて、主は十字架につけられ犠牲の死を遂げられます。その後数十年を経ずして、エルサレムの神殿は崩壊し、エルサレムの町は滅ぼされます。

「自分の十字架を背負って、キリストに従う。」

今日の福音で、主キリストはこの一つのことを、ご自身の「弟子の条件」としてわたしたちに厳しく求めておられました。それは、主の食卓で自分に上席を求めようとするファリサイ人のような傲慢さとは正反対のことです。主はご自身の弟子たちに、傲慢と虚栄ではなく、主のみ前に自らの罪と弱さを正直に認め、すなわち自らの十字架を負って、主キリストに従おうとする謙遜と誠意を求めておられます。

弟子にとって、そのためには命がけの決意が必要とされるはずです。主キリストの弟子であること、すなわち自らの十字架を自ら負って主に従うことは、片手間に、あるいは趣味や道楽、あるいは偽りの虚栄や教養としてできることではありません。なぜなら、そのことに「永遠の命」がかかっているからです。主は仰せです。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

自らの持てる一切、自らの虚栄や傲慢の一切を捨て、正直に自分の十字架を背負って主キリストに従おうとする者だけが、実は、自分の十字架が自分一人では決して負い切れるものではないこと、そしてそれゆえにこそ、本来このわたしが一人で負うべき十字架を、主キリストが、すでにわたしたちとともに負ってくださっておられるという恵みの事実を、懺悔と感謝とともに知らされるのではないでしょうか。

事実、マタイによる福音は、今日のルカによる福音と同じ主キリストのみことばを伝えた上で(10:38)が、次の主の忘れがたいおことばを伝えてくれています。

「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(すなわち、十字架)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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