説教
年間第25主日(C年 2022/9/18)
ルカ16:1−13
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
主キリストは、今日の福音の「不正な管理人のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」を、このみことばによって結んでおられました。
主キリストが「たとえ」(para-ballo, para-ble)でわたしたちをご自身とともに「神の国」に誘われることは、すでに見ましたが、今日の「たとえ」も福音である神の国の「たとえ」の一つとお聞きになられて、意外に思われる方がおられるかもしれません。が、そうであることは、今日の福音に続いて今日の「たとえ」を巡ってのファリサイ派の人々と主キリストとの対話の中で、主ご自身が明らかにしておられます。
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされている。」
主キリストが「神の国のたとえ」でお示しになられるのは、ヨハネの時は終わり、今、ここに主キリストにおいて、「神の国」が来ているという事実です。それはわたしたちが、今や「神の国の主」キリストのみ前に立っているという現実でもあります。
ただ、今、キリストの前に立つわたしたちはどのような者なのか。今日の主キリストの「不正な管理人のたとえ」で、主人に前に呼び出されて「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」と言い渡された「不正な管理人」のように、わたしたちも、将来の何時か主人に呼び出されるかもしれないと、悠長に構えているわけにはいきません。
もはや自分を取り繕い、きれいごとを言っている暇はないのです。わたしたちは、すでに来られた主キリストのみ前に立っているからです。わたしたちには、「不正にまみれた富」を用いてでも、「永遠の住まいに迎え入れてもらう」ために、今、出来ることをする他ありません。ただしかし、わたしたちには「不正にまみれた富」以外に、はたして何か持ち合わせがあるのでしょうか。主は、次のように仰せでした。
「ごく小さな事に忠実な者は大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当の価値のあるものを任せるだろうか。また他人のものについて忠実でなければだれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。」
「ごく小さな事」・「不正にまみれた富」・「他人のもの」と、ここで主キリストは、一つのことを、言葉を変えて示されておられるようです。しかし、それはいったい何のことなのでしょうか。実は、それはわたしたち自身のこと、わたしたちの「命」のことではないでしょうか。わたしたちには、本来「聖(きよ)い神の国のいのち」が「正しい富」として、神から託されていたはずです。その「正しい富」をわたしたちは、それを自分のものであるように勘違いし、したがって罪によって汚し「この世の不正にまみれた富」にして来てしまったのではなかったでしょうか。
今、主キリストのみ前にわたしたちが求められているのは、そのような自らを取り繕うことでも、弁解することでも無いはずです。それは、主のみ前に立っているという自覚のない律法学者たちのしていることです。しかし、主のみ前に立っていることを自覚させられたわたしたちは自らの罪を認め、その赦しをこそ求めさせていただくことではないでしょうか。汚してしまったわたしたちの「命」、すなわち「この世の不正にまみれた富」を、聖霊によって聖めていただき、主キリストを通して「聖い神の国のいのち」・「正しい富」として、ふたたび主なる神に、感謝の捧げものとしてお返しさせていただくことではないでしょうか。
与えられた「いのち」を罪によって汚してしまったわたしたちは、主キリストをこそ切に待ち望んできたのではなかったでしょうか。わたしたちの罪を赦し、聖霊によってわたしたちを聖めることがおできになられる主による他に、人生の解決はどこにも無いからです。今、その主のみ前に、わたしたちは立っています。「神の国のたとえ」の示すこの真実の前に、主がわたしたちに求めておられることはただ一つです。
「(神の定めた)時は満ち、神の国は近づいた(今ここに来ている)。悔い改めて(キリストに心を向け)福音(であるキリスト)を信じなさい(キリストに身を委ねなさい)。」
主キリストは、「悔い改めて福音を信じる」わたしたちを、罪によって汚された「不正にまみれた富」から、聖霊によってふたたび神の喜ばれる「正しい富」に変えて、わたしたち自身を受け入れてくださいます。それが、「神の国の福音」です。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。