カトリック上福岡教会

説教

年間第24主日(C年 2022/9/11)

ルカ15:1−32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音の三つの「神の国のたとえ」のように、主キリストは「神の国」の宣教を、日本語では「たとえ」と訳されて来た、非常に印象深い表現(元のギリシャ語の動詞で syun-ballo ないし para-ballo〔英語の para-ble〕、ともに直訳すれば「〔神の国に〕わたしと一緒に飛び込もう〔or 一緒に赴こう or 一緒に(船で)渡ろう〕」)でなさって来られました。並行して、主はくり返しご自身の「十字架と復活」を予告して来られました。「神の国」と主キリストの「十字架と復活」は、切り離すことができないからです。

今日の三番目の「放蕩息子のたとえ」で、「放蕩息子」は「父」から受けた財産を全て失った後、他に帰るあても無く父の家に帰って来ました。その時父は、息子がまだ遠く離れていたのに彼を認め、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、彼のために心から喜んで祝宴を開きました。

ところで、この「放蕩息子」には兄がいます。明らかに兄として暗示されているユダヤの民から見て、元来異邦人であったわたしたちは、今日のたとえを弟である「放蕩息子」に自らを当てはめて聞く他ないと思います。ただし主キリストの今日のたとえで聞き逃してはならないのは、異邦人であったわたしたちも、兄であるユダヤの民と同じ父の子」と、主がはっきりとお語りになっておられることです。

そうであれば、わたしたちが、いかに尊いかを弁えないままに、自分のためにだけ今日まで浪費していた「財産」(命こそその最たるもの)も、その一切は、神の民ユダヤの兄と「同じ父」からわたしたちに託されていたものであったことです。その事実を、わたしたちは今日の主キリストの「たとえ」を通してはっきりと知らされました。主はこの「たとえ」で、「父」から受けた御恩はおろか、まことの「父」を忘れ果てての長い「放蕩」の末に、それにもかかわらず、「父」はわたしたちを喜んで「父の家」に再び迎え入れてくださると、「父」の御心をはっきりとお示しになっておられます。

しかし、「父」に対する兄の激しい抗議にもかかわらず、「放蕩息子」である弟のわたしたちを「父の家」に迎え入れ、さらに「父の食卓」に招いてくださるために祝宴を整えてくださる時、「父」はわたしたちのために、大きな犠牲を払われるという事実を聞き逃してはなりません。主キリストは、「父」は「犠牲を屠って」わたしたち「放蕩息子」のために祝宴を整えてくださる、とはっきりお語りになっておられるのです。

「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

「父」の大いなる喜びは、「放蕩息子のたとえ」の前の今日の福音の始めの二つの「神の国のたとえ」の結びの主キリストのおことばに、くり返し語られていました。すなわち、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」また、「このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

ただし、このような「父」の大きな喜びは、放蕩と忘恩の限りを尽くしながらも、なお「子」であるわたしたちに対する、「父」の大き過ぎる犠牲と引き換えです。

今日の福音が指し示す「神の国」の真実。それは、「死んでいたわたしたちが生き返り、いなくなっていたわたしたちが見つけられる」という「天にある大いなる喜び」のためには、「父」なる神は、いかに大きな犠牲であろうとも、わたしたちのためにこれを決して厭うことなく行ってくださると言うことです。たとえそれが父の御独り子・主キリストを十字架につけるほどの犠牲であっても。

しかもこれをお語りになっておられるのは他でも無い、主キリストご自身です。「父」なる神の御心のままに、ご自身を十字架の上で犠牲として捧げ、わたしたちのために真のいのちの食卓を備えてくださる神の独り子・わたしたちの主キリストご自身。

ユダヤの民から見たら「放蕩息子」以外の何者でもないわたしたちです。まことの神である「父」を長く忘れ、忘恩の限りを尽くして来たような長く深い罪の歴史が、わたしたちにはあります。しかし、「父」は、悔い改めるわたしたちを、喜んで父の家に迎え入れ、「犠牲を屠って」食卓を整え、「神の国の祝宴」へと招き入れてくださるのです。実はこれこそ、「神の国の主」キリストによって、現に、わたしたちのただ中ですでに始められている恵みの事実。それが「神の国」です。この「神の国」のただ中に「わたしと一緒に飛び込もう」と主は仰せです。それが、ごミサです

ただし、そのわたしたちのための「天のみ国における大いなる喜びを地で祝う食卓」、天と地を繋ぐ祭壇のために、「父」なる神が、犠牲として屠られたのが、御子キリストであられたことを、わたしたちは決して忘れてはなりません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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