カトリック上福岡教会

説教

年間第19主日(C年 2022/8/7)

ルカ12:32−48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「腰に帯びをしめ、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

主キリストが、弟子たちとともにエルサレムを目指して上られる旅も、すでに半ば近くになります。主は弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることへと心を向けるようにと、すでにくり返し求めて来られました。今日も、主は弟子たちに仰せです。

「目を覚ましていなさい。」

しもべが目を覚まして、主人の帰りを待つ。常識的には、それは、しもべが主人を迎えて、直ぐに主人の足を洗い、主人のために食卓を整え、給仕するためでしょう。しかし、驚くべき事にその逆であると、主キリストは、次のように続けておられました。

「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

これこそ、わたしたちがまったく予期しなかった主キリストのおことばではないでしょうか。しかし、わたしたちは知っています。「その時が来る」と、主は、事実、このおことば通りにしてくださる。それが、「主の最後の晩餐」そしてミサです。

「その時」、主キリストはしもべであるわたしたちに、大切な客人をもてなす時のように、「帯を締めて」わたしたち一人ひとりの足をご自身で洗ってくださいます。

その後、主キリストはわたしたちを食事の席に着かせ(ルカ22:19、20)、

「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯もおなじようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

「その時」、主キリストはわたしたちに、パンとブドウ酒の相(すがた)において、ご自身の「御からだと御血」、すなわちご自身のいのちをお与えくださいます。そして、このことは、ミサの度にわたしたちのためにくり返されます。世の終わりまで。

「目を覚ましていなさい。」

それは、主キリストが「その時」、わたしたちのために成し遂げてくださる一切のことを、わたしたちが決して見逃さすことのないためです。

「目を覚ましていなさい。」このおことばは、さらに、わたしたちに、「主の晩餐」に続くゲッセマネの園での主キリストのお姿をも思い起こさせるのではないでしょうか。「その時」、主は弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられた後、次のように仰せでした。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マルコ14:32−34)

「主と共に、目を覚ましている。」それは、主キリストとともに祈らせていただくためです。ほかでもないわたしたちの救いのために、夜を徹して祈られる主ご自身の祈りに、わたしたちを招いてくださるためです。「その時」、主は「地面にひれ伏し」「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と、次のように祈られます。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

この後、時を置かずに、主キリストは父なる神の「御心」に従い、わたしたち罪人に代って、神の怒りの「杯」を飲み干されます。それが主の十字架です。

「主の時」が近づいています。それは、わたしたちにとっては「救いの時」です。しかし、主キリストとっては、「十字架におつきになられる時」であることを、わたしたちは、忘れてはなりません。時は近い。「目を覚ましていなさい」とお命じになられる主はわたしたちに、次のようにはっきりと約束しておられました。

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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