カトリック上福岡教会

説教

年間第22主日(C年 2022/8/28)

ルカ14:1、7−14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今日の福音でこのように仰せになられる直前に、主キリストはエルサレム入城を間近に控えて、神の都でのご自身の苦難と死を、次のように予告しておられました。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」

続けて主キリストはご自身を十字架につけるエルサレムのために深く嘆かれました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムは、神の都として建てられました。それは、わたしたちが神を正しく礼拝することができるように、神がご自身の「聖名」をそこに置かれるためです。そうであれば、神の都エルサレムで、主なる神がわたしたちに求められるのはただ一つ。神を神とさせていただくこと。神を畏れ、神のみ前に謙遜であることです。

ただしそれは、偏に「神のみことばに聞くこと」によってのみ与えられる恵みです。

しかしエルサレムは、過去にもくり返し罪を犯して来ました。彼らは「神のことば」に耳を傾けないばかりか、彼らに「神のことば」を携えて遣わされた「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」してさえ来ました。

主キリストは、ご自身のエルサレム入城を控えて、エルサレムが再び、しかも決定的な仕方で、この罪をくり返すことになることをすでに知っておられます。しかもこの度は、人となられた「神のことば」である主キリストご自身に対して。

主キリストは、エルサレムが「神のことば」である神の御子を十字架にさえつけることになるという、その信じ難い罪ゆえに、エルサレムのために深く嘆かれたのです。

その主キリストのみ前での、にわかには信じ難いような人々の振舞いを、今日のルカによる福音は伝えていました。主がファリサイ派のある議員の家での食事に招待された時のことでした。人々は、主キリストが招待されていることなど忘れ果てたかのように、「上席を選ぼう」と互いに争いあっていました。それをご覧になられた主は「婚宴に招かれた客のたとえ」の後、次のように仰せになられました。

「婚宴に招待されたら上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれているかもしれない。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。」

これに続けて仰せになられたのが、冒頭に引用した主キリストのおことばです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

主キリストはエルサレムの罪を深く嘆かれました。それは、「神のことばを聞かぬ」罪です。ただしそれは非常に具体的に、「神のことばを携えた預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺してきた」罪です。さらにそれは、「受肉した神のことば」である主キリストを、十字架につけることに極まる罪です。

ここに極めて大切なことがあります。「神のことば」に対しては、「聞く」か「聞かない」かというわたしたちの心の持ち様ではなく、神のみ前に、「受肉した神のことばキリスト」を「神なる主」として受け入れるか、その主キリストを十字架につけて葬り去るか、のどちらかの選択しか、わたしたちにはないという現実です。

神のことばを拒む。それは、「神のことば」である主キリストを十字架につけることに極まる罪です。それは、ひとえに傲慢の罪です。「神のことば」の教師を自認していたファリサイ人たちのように、神の遣わされた「受肉した神のことば」主キリストを貶しめ、自分を高く上げようとする罪です。「みことばなる神」に対する実に愚か極まる姿です。ただしそれは果たして他人ごとでしょうか。

しかし、そのようなエルサレムの人々の前で、やがて主キリストが、そして主キリストだけが、神とエルサレムの人々によって、高く上げられる日が確かに来ます。十字架の上で。主キリストのエルサレム入城の時が近づいています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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