カトリック上福岡教会

説教

年間第20主日(C年 2022/8/14)

ルカ12:49−53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主キリストがエルサレムに向かわれる最後の旅に伴わせていただいています。今日の福音は、ガリラヤを発ってヨルダン川沿いにエルサレムを目指して南下する旅も、すでに半ば近くに差し掛かろうとする頃のことです。

主キリストは、これまでにも弟子たちに、「ご自身の時」が近づいていることを、くり返しお語りになって来られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22、さらに9:44)

先の主日に、主キリストが弟子たちに勧告された「目を覚ましていなさい」とのおことばをお聞かせいただきました。さらに主は、今日の福音のみことばに続けて、「時を見分ける目」を持つようにとわたしたちに厳しくお求めになられます。そのような中で、今日のルカによる福音は、主の次のおことばを伝えていました。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

続けて主キリストは、次のようにも仰せでした。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」主の実に厳しいおことばは、この後さらに続きます。

この主キリストのおことばを、どのように聞かせていただけばよいのでしょうか。

ここで「火」といわれるのは、旧約以来「神の裁き」を意味します。罪なるものを焼き尽くす「神の裁きの火」です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」神の御子・罪のない主キリストは、それゆえ「罪を裁くことがおできになる唯一の主」として、天の父なる神から地のわたしたちに遣わされました。

なぜ、父なる神は、罪人であるわたしたちに御子キリストを「地上に火を投じるために」すなわち「裁き主」として遣わされたのでしょうか。かつてソドムやゴモラの人々のようにわたしたちを、罪ゆえに神の怒りの火によって焼き尽くすためでしょうか。

主キリストは、「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と仰せでした。主のこのおことばは、後のゲッセマネの園での主の祈りのおことばを思い起こさせます。そこで主は、次のように祈られました。

「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「この杯」とは、先の「神の裁きの火」と同じく、「神の裁きの杯」です。罪に対する神の激しい憤りです。当然それは、罪人であるわたしたちが飲み干すべきものです。しかし、本来罪人であるわたしたちが飲み干すべき神の裁きの「杯」を、驚くべきことに父なる神は、わたしたち罪人に代って御子キリストに飲み干すことを求められたと、ゲッセマネで主は神のみ旨を明らかにされました。

事実主キリストは、「神の怒りの杯」を飲み干すために十字架におつきになられます。

今日の福音で、御子キリストは、父なる神のみ旨をそのまま主ご自身のご決意として、お語りになっておられたのでした。主は仰せでした。

「その火が、既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」

罪なきゆえに罪人を裁くことがおできになる唯一の裁き主キリスト。主は罪の裁きの一切を、罪人であるわたしたちに代って裁き主であるご自身に求めてくださる。十字架において。今日の『ヘブライ人への手紙』が証している通りです。

「イエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」

神の裁きがわたしたちの救いとなる。しかしそれは、「神の怒りの火」をご自身に受け、「神の怒りの杯」を飲み干される主キリストの十字架無しには成就しません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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