カトリック上福岡教会

説教

年間第18主日(C年 2022/7/31)

ルカ12:13−21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日に、主キリストから主ご自身の祈りである「主の祈り」をいただきました。その際主は、「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」と仰せでした。「主の祈り」は、「聖霊」を求め、聖霊に導かれて祈る祈りです。使徒パウロは、「祈りと聖霊」について、次のように教えていました(ローマ8:26、27)。

「『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、『霊』の思いが何であるかを知っておられます。『霊』は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」

神のみ旨を知り、わたしたちの弱さも知る「聖霊」は、わたしたちの内に働いて「どう祈るべきかを知らない」わたしたちを、「言葉に表せないうめきを以て」「神の御心に従って執り成してくださる。」このように「聖霊」はわたしたちに、神に真に祈り求めるべき事は何かを教えてくださいます。ただし、それは何なのでしょうか。

それは、「神の国」に他なりません。事実、「主の祈り」において、わたしたちが「聖霊」によって最初に導かれる祈りこそ、「神の国」を求める祈りでした。すなわち、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」

実はルカは今日の福音に続けて、マタイによる福音同様、主キリストが弟子たちに「主の祈り」をお与えくださった時、次のように仰せでした(マタイ6:31−33)。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

「ただ、神の国を求めなさい。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

主キリストは弟子たちに、聖霊に導かれて「神の国」を求める「主の祈り」をお与えになられた後、今日のルカの福音のように、「神の国」そのものを、多くの「たとえ」を用いて語り示し続けて行かれます。

主キリストの「たとえ」。それは「神の国のたとえ」と呼ばれます。しかし、主の「神の国のたとえ」には仏教のお経が、「浄土」の荘厳と「浄土の主」阿弥陀仏の姿を克明に描くようには、「神の国」の様子も、「神の国の主」のお姿も語られることがありません。なぜでしょうか。

その必要が無いからです。「神の国の主」キリストご自身が、今ここで、福音とご聖体において、わたしたちに直接お語りになっておられるからです。そして「神の国の主」キリストがいますところに、「神の国」はすでに始まっています。「神の国のたとえ」で主がお示しになられるのは、わたしたちのただ中に始められた主キリストご自身におけるこの驚くべき「神の国」の事実と「神の国」の力です。

今日の「愚かな金持ちのたとえ」が示すように、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われる「神の国の主」キリストのみ前に、したがって「神の国」の真実と現実の内に、主を迎えたわたしたちはすでに立っているのです。

主キリストは仰せでした。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」なぜなら「わたしたちの命は主キリストと共にある」からです。第2朗読の『コロサイへの教会への手紙』で使徒パウロは次のように語っていました。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

わたしたちは、すでに「神の国の主」キリストをお迎えした「時」の内にあります。これは、真に喜び、かつ畏れるべきことです。天地創造以来、人はこの「時」を満たされる唯一の方である主キリストを切に待ち望んできました。その時、その方の許にあってのみ、人は「神の国」に新しく生まれるからです。今、「神の国のたとえ」の示す真実の前に主キリストがわたしたちに求めておられることはただ一つです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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