カトリック上福岡教会

説教

年間第17主日(C年 2022/7/24)

ルカ11:1−13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主キリストはわたしたちに、主ご自身の祈りである「主の祈り」をお授けになり、わたしたちを主ととともに祈る光栄へとお招きくださいました。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、聖霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)と教えています。

そうであれば、主キリストからいただいた「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる聖霊」を求めさせていただくことではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけごミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』の中心の『奉献文(聖変化)』の直後、「ご聖体拝領」に極まる主キリストとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」はご聖体における主のご現存のもとで、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

「ご聖体」を拝領することは、ご復活の主キリストのいのち、すなわち生ける主ご自身をわたしたちのいのちとしていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばにしたがって、ごミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

「主キリストのみことばにしたがって、聖霊を求めさせていただく」と申しました。「主の祈り」をわたしたちにお授けくださった主はそのことをはっきりと仰せです。

主キリストは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」

ルカによる福音が伝えるように、「弟子の一人」が主キリストに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は単純に主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主キリストが、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったことは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお赦しくださったことだからです。ただしそれは、父なる神と主キリストご自身にとって、さらにわたしたちにとって、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御子キリストご自身、つまり御子のいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされた、ということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ごミサのご聖体拝領の度ごとに。

ごミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主キリストからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが主キリストとともに祈る光栄に生かされるために大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主の内に完全に成就しています。その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。

その「聖霊」を求めさせていただいて良いそれが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主キリストは「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがごミサです

マタイによる福音は、主キリストの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝えています。その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と仰せの上で、「主の祈り」をお与えくださっておられます

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」です。それは、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神」に、「父の霊」である「聖霊のご支配」に、わたしたちを委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、聖霊において御子キリストご自身をお授けくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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