カトリック上福岡教会

説教

聖霊降臨の主日(C年 2022/6/5)

ヨハネ14:15−16、23b−26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先に、ご復活の主キリストのご昇天の証人とされたわたしたちは、ご昇天から10日後、ご復活から50日目の聖霊降臨の主日に、ふたたび、主の大いなるみ業の証人とされるべく主のみ前に集められました。ヨハネによる福音は、今日、主が「最後の晩餐」で「聖霊」について弟子たちに語られたおことばを想い起こさせてくれます。

「最後の晩餐」の時、主キリストは、続くご自身の十字架の死をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、主のお心を占めていたのは、ご自身の死の後に残される弟子たちの、さらにわたしたちのことだけであったのではないでしょうか。主は、十字架の死を控えて次のように仰せでした。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。わたしはあなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)。その上で、今日の福音のように、主は次のように約束してくださいました。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。」

十字架の死の後の最初の「弁護者」として戻ってきてくださる方はご復活の主キリストご自身です。それでは、別の弁護者」とは誰なのか。他でもない聖霊のことです。続いて主は、「弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14:26)と仰せです。ここで主は「聖霊」を、もはや「別の」弁護者とはお呼びにならずに、ご復活の主ご自身と同じ「弁護者」という言葉でお呼びになっておられます。「聖霊」とは目に見えないご復活の主キリストご自身に他ならないからです。

十字架の主キリストのご復活。その日、ご復活の主のみ前に、わたしたちは、弱り果て、傷つき倒れ、命を失ってさえいたのではなかったでしょうか。ご復活の主は、そのわたしたちを助け、介抱してくださいました。実は、「復活する」と訳された言葉は、元の新約ギリシャ語では、「(自ら)起き上がる、立ちあがる」の自動詞的意味の前に、「(弱った人を)助け起こす」「(倒れた人を)抱き起こす」「(傷ついた人を)保護し、介抱する」と言う他動詞的意味で日常用いられた言葉でもあったのです。

このご復活の主キリストのお姿と働き。それは、主がご昇天の後にわたしたちにお遣わしくださり、ご復活の主ご自身と同じ「弁護者」の名で呼ばれる「聖霊」によって確実に受け継がれてゆきます。「聖霊」こそ、時と所を越えて、いつも、そして永遠にわたしたちとともにいてくださる「ご復活の主キリストご自身」だからです。

あらためて、「弁護者」とは?元の新約の言葉は、「(人を助けるために)傍らに呼ばた人」と言う意味から、助けを必要としている人の「助け手」、倒れている人、傷ついた人の「介護者、保護者」とも訳されます。実は、福音を伝える新約ギリシャ語では、「復活する」と「弁護する」とは全く同じ内容の言葉なのです。ご復活の主キリストがとくにご自身を「弁護者」とし、「聖霊」をも「弁護者」と呼ばれるとき、ご復活の主のお姿とお働きが、「聖霊」のお姿とお働きに、自然に重なるのは当然なのです。

ただし、別の弁護者」ないし「弁護者」と呼ばれる「聖霊」を、主キリストはわたしたちにご自身の十字架と引き換えにのみお与えくださることは、今日の福音の直後の主のおことばから明らかです。「実をいうと、わたしが去って行くのはあなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)

主キリストのご復活から50日目。主が、この「弁護者」、すなわちご復活の主キリストご自身である「聖霊」を、わたしたちにお遣わしくださる日。主の眼差しの前に、今、わたしたちはどのような姿なのでしょうか。ふたたび人生の悲しみに打ちひしがれ、苦しみに耐えかね、弱り果て、傷つき倒れ、あるいは死の床に喘いでいるような、わたしたちではないでしょうか。ふたたび、ご復活の主キリストに助けられ、抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちではないでしょうか。

そのわたしたちに主キリストは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と仰せです。「弁護者」である「聖霊」が「思い起こさせてくださる方」とは、主キリストご自身、すなわち、わたしたちのために十字架につき、さらにわたしたちのために復活してくださった主、であることは明らかです。

聖霊降臨。父なる神と御子キリストによって「聖霊」が遣わされる時。今、皆さんの前には、「弁護者」聖霊の内に、まことの「弁護者」ご復活の主キリストご自身が、ふたたびお立ちくださいます。主は両手を広げて、皆さん一人ひとりをご自身の胸に抱きしめ、抱き起こしてくださるために。その御手には十字架の傷跡。その御胸には槍の傷跡。目に見えない「聖霊」の内に、ご復活の主キリストのお姿が鮮やかです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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