カトリック上福岡教会

説教

復活節第6主日(C年 2022/5/22)

ヨハネ14:23−29

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」

主キリストが、「最後の晩餐」で弟子たちにお語りになられたおことばです。実は、このおことばに続けて主は、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せです。主がお与えくださる「平和」とは、いかなるものなのでしょうか。

冒頭の主キリストのおことばの直前に、主はわたしたちに、「弁護者、すなわち父がわたしの名によって遣わされる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と、十字架を間近に控えて、ご自身の死の後、「主の名によって遣わされる聖霊」が、主に代って、主が約束された一切のことを成就してくださると、仰せになっておられました。

そうであれば、「主がわたしたちにお与えくださる平和」とは、「主の名によって遣わされる聖霊によってわたしたちに成就される平和」に他なりません。しかし、ここでは、なぜ、「聖霊」のことを、ことさらに「弁護者」と呼ばれたのでしょうか。

「弁護者」。新約聖書のこの言葉は、「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」と言う意味から、助け主、介添人、介護者、保護者とも訳されてきました。興味深いことに、聖書で「復活する」という言葉は、主キリストご自身、さらに初代の教会の言葉、つまりユダヤの言葉やギリシャの言葉では、「起き上がる」、ないし「立ち上がる」と言う自動詞よりも、「倒れた人を抱き起こす」、「弱った人を助け起こす」、さらに「傷ついた人を介抱する」と言う他動詞として、日常使われていた言葉でもありました。

十字架の主キリストのご復活。その日、主のみ前のわたしたちは、弱り果て、傷つき倒れ、死んでさえいたのではなかったでしょうか。そのわたしたちのみ前に、ご復活の主は、傷つき倒れていたわたしたちを助け、介抱してくださる方として、さらに主のみ前に命を失ってさえいたわたしたちを大切に抱き起こし、いのちを与えてくださるただ一人の「助け主」として、お立ちくださったのではなかったでしょうか。

この「助け主」としてのご復活の主キリストのお姿。それは、主が十字架の後にわたしたちに、主の名によって遣わされる「弁護者」すなわち「助け主」である「聖霊」のお姿とそのお働きと、明らかに一つです。むしろこの「助け主」なる「聖霊」こそ、時と所を越えてつねにわたしたちとともにいてくださり、わたしたちの真実の「助け主」であり続けてくださる「ご復活の主キリストご自身」ではないでしょうか。

先に見たように、「主キリストがお与えくださる平和」は、「聖霊による平和」です。その際、「聖霊」こそ、目に見えない「ご復活の主ご自身」です。したがって、「聖霊による平和」とは、「ご復活の主からの平和」に他なりません。ここで、改めて、その「平和」あるいは「平安」とはいかなることなのでしょうか。

「平和」ないし「平安」と訳されている言葉は、主キリストの話されたユダヤの言葉では「シャローム」、ギリシャの言葉では「エイレネー」です。皆さんお気づきのように、実は、このおことばこそ、ご復活の主ご自身が、最初から、かつ常に、そしてくり返し弟子たちに語りかけられたおことば以外の何ものでもありません。

ご復活の主キリストは、「シャローム」(エイレネー)と弟子たちに語りかけられた上で、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。「シャローム」(エイレネー)とは「大丈夫」、「わたしがいるから大丈夫」との意味です。このおことばこそ、ご復活の主を疑い、怯えさえしていた弟子たちへの主の深い慰めのおことばです。

ごミサ。それは、主キリストから、ご聖体において「聖霊」を受けさせていただく時。今、わたしたちの前には、「助け主」である「聖霊」によって、「助け主」・ご復活の主ご自身が、お立ちくださっておられます。わたしたちに両手を広げて、わたしたち一人ひとりをご自身の胸に抱きしめてくださるために。その御手には十字架の傷跡。その御胸には十字架の槍の跡。わたしたち一人ひとりのための。

わたしたちをご自身の胸に抱きしめ、「シャローム(エイレネー)、わたしがいるから大丈夫だ」と仰ってくださるご復活の主キリストが今、わたしたちの前にお立ちです。

「わたしはあなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える」との主キリストの約束のおことばを、わたしたちはごミサにおいて、「主の祈り」に続く「教会に平和を願う祈り」の中で、ご聖体を拝領する前にいつもお聞きしています。わたしたちはごミサの度に、主のこのおことばにひたすら頼って、ご聖体を拝領していると言っても過言ではありません。主のこの赦しと励ましのおことば無しに、ご聖体において主のいのちである「聖霊」をいただくことは、わたしたちにはできないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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