カトリック上福岡教会

説教

復活節第3主日(C年 2022/5/1)

ヨハネ21:1−19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ペトロ始め主キリストの弟子たちを、ご復活の主が「三度目」にお訪ねになられた次第を伝えていました。驚くべき事に、ご復活の主の「三度目」のご訪問にもかかわらず、ペトロたちは、最初、主を認めることができませんでした。

そのようなペトロたちに、復活の主キリストは、かつて彼らが、ガリラヤ湖畔で主から召し出しを受けた時(ルカ5章)とまったく同じように、この度も彼らに、夜通しの不漁にもかかわらず、夜明け方に主のご命令に従って再び網を打った時、網一杯の魚が与えられたと言う「湖の奇跡」を繰り返してくださいました。それで、ようやく、ペトロたちは、「だれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」と、今日の福音は伝えています。

これは、いったいいかなることなのかと、首をかしげたくなるような事態です。改めて、ご復活の主キリストが、主のご復活を疑うトマスを、わざわざ訪ねてくださったことを伝えた、今日の福音に先行して語られた先の主日の福音を思い起こします。

トマスも、当初、主キリストのご復活を信じられませんでした。しかしご復活の主は、疑うトマスをそのままに放っては置かれませんでした。主のご復活から八日目、ご復活の主は、主のご復活を疑い続けるトマスのみ前に立ち、彼に仰せになりました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

このご復活の主キリストに、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とお答えしました。この時トマスは、ご復活の主の前に、悔い崩折れる他なかったと思います。そのトマスを、主キリストは大切に抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る御腕で、槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主キリストのご復活です。

主キリストのご復活を、すぐには認められなかったのはトマスだけではありません。今日の福音が伝えるように、くり返しご復活の主のご訪問を受けながらも、主のご復活を確信できなかったペトロ始めすべての弟子たちをも、ご復活の主キリストは忍耐強く、「三度」、すなわち、くり返し訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と主のご復活を疑い得なくされるまで。それが、今日の福音です。

今日のヨハネによる福音は、さらに続けて、ご復活の主キリストが、ペトロたちとの「三度目」の出会いの中で、「パンを取って弟子たちに与えられた」直後に、主がペトロに仰せになられた、大切なおことばを伝えていました。

「食事が終わると」と、福音は語り続けます。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。」

ちょうど、ご復活の主キリストが、ペトロを「三度」訪ねてくださったように、この時、主は、「わたしを愛しているか」というまったく同じ問いを、「三度」重ねてペトロに問われました。その時、「ペトロは、イエスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とさえ、福音は伝えています。

しかし、「三度」訪ねてペトロをして主キリストのご復活をもはや疑い得ない者とされたご復活の主は、さらに、「三度」重ねてペトロに明らかにしておかなければならないことがありました。それは、ペトロにとって、「キリストを愛する」ことは、「キリストの子羊を飼うこと、主の羊の世話をする」ことである、と言うことです。

そして、ペトロにとってそのことは、彼の命をかけての主キリストと教会への奉仕を意味することでした。主は、ペトロへのおことばを、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そう」とされて、次のように結んでおられます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、…年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

「主キリストを愛する」とは、ペトロにとって、主と彼だけの内輪の関係に終始することではなく、「主の羊の世話をする」ことであり、愛ゆえに「主のためにいのちを捨てる」ことは、「主の教会のために自らの命を捧げる」こと。そのようにしてペトロは、主キリストによって「主の教会の礎」とされると言うことです。

「疑い深い」と言われたトマスに、ご復活の主キリストは、「わたしの神、わたしの主よ」との最も尊い信仰告白のことばをお与えくださいました。同じように、主のご復活を「三度」疑ったペトロが、主のご復活を二度と疑わなくなるまで「三度」重ねて訪問された上で、彼を「主の教会の礎」としてお立てになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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