説教
復活の聖なる徹夜祭(C年 2022/4/16)
ルカ24:1−12
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
主キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアと数人の婦人たちは、十字架の後に主のおからだが納められた墓に、香料を携えて訪ねました。彼女たちが墓に着いた時、神は「輝く衣を着た二人の人」を通して、彼女たちに声をかけてくださいました。マグダラのマリアたちが、「恐れて地に顔を伏せる」と、「二人の人」は、彼女たちに次のように告げました。
「なぜ、生きている方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
ルカによる福音は続けて、「二人の人」のこのことばを聞いたマグダラのマリアたちについて、次の二つのことを伝えています。「その時、婦人たちはイエスのことばを思い出した。」さらに、彼女たちは、「墓から帰って、十一人(の使徒たち)とほかの人皆に、一部始終を知らせた。」後に、彼女たちが「使徒たちへの使徒」と呼ばれるようになるのも、理由の無いことではありません。
さて同じ時の出来事を伝えるマタイによる福音は、マグダラのマリアたちに、主なる神は「主の天使」を通して、「恐れることはない」と告げられたと伝えています。(マタイ28:1−10)
「恐れることはない」。マグダラのマリアたちは、この時、何を「恐れた」のでしょうか。主が納められたはずの墓が空だったことでしょうか。主を失った後の彼女たちの生の不安でしょうか。ルカが伝えるように、「恐れて地に顔を伏せた」マリアたちは、彼女たちに、今、お会いくださっておられる神を「恐れた」のです。そのマリアたちに、それゆえ、神はおことばをおかけくださったのです。「恐れることはない」。
しかし、このわたしは、どうなのか。「恐れて地に顔を伏せ」、神に「恐れることはない」と言っていただかなければならないほどに、神を「恐れて」いるだろうか。果たしてそのように神を、そして神のみを、恐れて生きてきたといえるかどうか。
第二次大戦中、スイスのある司牧者が、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れることはない』。この題は、主キリストの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母とされるマリアさまに告げた「マリア、恐れることはない」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きの中で、恐怖と不安に心が動転している人々に向けて語られた説教でした。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。
「もし、わたしたちが真に神を、神のみを恐れるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対する恐れから自由になる。しかし、もし神を、神のみを恐れることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものを恐れて生きるほかはない。」
もし、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」と言うこと自体に、思いも及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という、人として最も大切なことを忘れたままに、神を信じるとは言いつつ、現実には、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、生涯を空しく過すことになってしまったかもしれませんでした。
愛してやまなかった主キリスト。頼りにし切っていた主の十字架の死。主キリストのご復活の朝早く、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、あるいはマグダラのマリアたちの心を占めていたのも、神への恐れというよりも、彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れであったかも知れません。
しかし、今、神への恐れの内に、神以外の一切のものへの恐れから解き放たれたマリアたち。マタイによる福音は、「神を恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」彼女たちの「行く手に、ご復活の主イエスご自身が立っておられた」と伝えます。その時、「イエスの前に、恐れひれ伏した」マリアたちに、イエスは言われました、「恐れることはない」。
神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。そして、この神こそ、主キリストにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、わたしたちの前に立っておられる。それが、主キリストの復活です。
「マリア、恐れることはない。」マグダラのマリアだけではありません。これは皆さんお一人おひとりへのご復活の主キリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。
「恐れることはない。」ご復活の主キリストが、皆さんとともに。