説教
受難の主日(枝の主日)(C年 2022/4/10)
ルカ23:1−49
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
灰の水曜日から受難の主日までの間、福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主キリストに伴い、主とともに、福音に語られた多くの人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。
主キリストの出会われた一人ひとりの辿ってきた人生は異なっていました。その中には、主に出会い、主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主を神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。
あるいは、今日のルカによる福音23章の語るエルサレムの群衆のように、一度は主を救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主を、十字架につけよ、と叫び出した人々もいました。
これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのでしょうか。じつのところ、その一人ひとりすべてがわたしである、ないしわたしであった、というべきかもしれません。
ご復活の主キリストの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると信じることはできない」(一コリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、主キリストを信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに、聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きに他ならないと思います。
たとえば、わたしは、仏門に生まれ、若い時に仏教の修行をさせていただいた者です。キリスト教とは縁もゆかりもなく生まれ育ったわたしが、手探りのような歩みの末、今、現に主を神なる主キリストと信じさせていただいているということは、これは神の聖霊による導きによるとしか言いようのないことです。
実際、主キリストを疑わず信じさせていただくことは、わたしたちにはとても重い事です。聖書においては、主なる神を疑うことを罪といいます。神なる主キリストを疑うのは、主を心底から信じることができないからです。言い換えれば、主なる神キリストに自分を委ね切ることができないと言うことです。アダムとエヴァのごとく、いつでも逃げられるように神と自分との間に距離を置く。それが、罪です。
主キリストの時代のファリサイ派の人々が、そうでした。彼らは、旧約の時代を通して約束されていたメシア・キリストを、熱心に待ち望んでいた人々です。しかし、彼らは主にお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。主を信じ、自分たちを主に委ねることができませんでした。主を疑ったからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。
そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちのために黙々と十字架を負って歩まれる主キリスト。四旬節の間中、主とともに、福音の語るたくさんの人々に出会い続けてきた中で、わたしたちは、じつはわたしたち自身に、同時に主キリストご自身に、出会わせていただいて来たのではないでしょうか。主を信じ切れず、主を疑うわたし。主に自分自身を委ね切れないわたし。そのようなわたしのために、わたしの罪、わたしの惨めさを一身にご自身の十字架として背負い抜いてくださる主キリスト。
主キリストを信じきれず、したがって主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主は、そのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで与え尽くしてくださいました。十字架の主こそ、わたしの疑いの罪を破り、信仰をお与えくださった唯一の神です。
信仰の神秘。それは、主キリストご自身が、罪なるわたしに信仰をお与えくださった、主ご自身がわたしの「信仰」となってくださった、ということです。神を信じきれず、神を疑うわたしが、神を信じさせていただくには、それしかなかったのです。主の十字架。ここに初めて、かつ最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切る、神に自己を捧げて生きる新しい命が、わたしたちの身の事実とされた。「信仰の神秘」。「神秘」すなわち「秘跡」とは、神のみ業です。
ごミサでいただくのは、わたしたちの「信仰の神秘・秘跡」である主キリスト、十字架においてご自身を父なる神とわたしたちに捧げかつ与え尽くしてくださった主の御からだと主の御血。「聖霊なる神」活ける主によらなければ、誰も「信仰」をいただくことはできないとパウロは教えていました。聖霊は、十字架の死を経て甦られた主ご自身のいのち、わたしたちを信仰に活かすご復活の主のいのちの息吹です。
十字架とご復活の主キリストは、疑いの罪からわたしたちを解放し、自らを主キリストに委ね切って主の内に真実に安らぐことをゆるす「信仰」を、聖霊の結ぶ実としてお与えくださいます。ご聖体において。「信仰の神秘・秘跡」。それが、ごミサです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。