カトリック上福岡教会

説教

四旬節第1主日(C年 2022/3/6)

ルカ4:1−13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。四旬節の40日と言う数字は、主キリストが、荒れ野で「四十日間、汚れた霊・サタンから誘惑を受けられた」ことに因むものです。

主キリストの荒れ野での40日に先立ち、先にルカによる福音は、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と、伝えていました。ここで「聖霊」とは、言うまでもなく、主キリストが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた際に、天から注がれた「父なる神の霊」です。

今日のルカによる福音は、さらに続けて、「そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」、と伝えていました。これは、新共同訳聖書の訳です。ただしこの訳では、主を荒野に導いたのは、父なる神の霊・聖霊ではなく、汚れた霊・悪魔であるかのような印象を受けます。これは、無自覚の内に善悪二元論的思考に慣らされて来たわたしたちには、分かりやすい話のようにも聞こえますが、しかし、そもそも、汚れた霊・悪魔に、神の御子・主キリストに何事かを強いるような力と権威があるのでしょうか。

実は、同じ個所を、カトリック・フランシスコ会訳聖書は、「イエズスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」とした後、続けて、聖霊によって荒野に導かれ、四十日の間悪魔の試みにあわれた」、と明快に、かつ事柄を正確に訳しています。主キリストが洗礼に際して父なる神から受けた「聖霊」と、その直後に、主を荒野の試練に導き出されたのは、明らかに同じ「聖霊」すなわち「父なる神の霊」であった、ということです。

そうであれば、御子キリストを荒野に導かれ、汚れた霊・悪魔に対して、主を荒野で誘惑し、主を試みることをお許しになられたのは、神の霊、すなわち父なる神ご自身と言うことになります。これは一体どういうことなのでしょうか。福音は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

加えて、それが父なる神のみ旨であったとするならば、主キリストを荒野に導かれ、そこで悪魔に主を試みることを許してまで、むしろそのことを通してのみ成就されるべき、わたしたち罪人のための父なる神の救いと言うことが、必ずやあるはずです。それは、一体、いかなることなのでしょうか。

「汚れた霊」「悪魔・サタン」とは、「わたしたちを神から引き離そうとするもの」、さらには「わたしたちが神とともにあることを、妨げようとする力」のことです。今日の福音で、主キリストが荒野でお受けになられた「悪魔からの試練」は、実はわたしたち自身も人生で繰り返し受ける「誘惑」ではないでしょうか。しかも、もしその「誘惑」に負けて、その結果、私たちが「神から離れて」しまうならば、わたしたちの人生を空しくしてしまうようなものではないでしょうか。

ここで、「聖い霊」、すなわち「聖霊」とその働きについて確認しておきたいのです。主キリストは、荒れ野での40日の後、聖霊において成就される福音(みことば)の宣教をお始めになりますが、福音書は、そのご様子を、主は「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から、「汚れた霊を追い出された」と、くり返しわたしたちに語ります。主キリストにおいて働かれる「聖霊」・「聖い霊」とは、まさにわたしたちから「汚れた霊・サタン」を駆逐・勝利してくださる神の力です。

「天の父なる神の霊」「聖霊」に導かれての主キリストの荒れ野の40日の試練とは、「汚れた霊サタンの誘惑」の一切を、主がわたしたちに先んじて受け、わたしたちに代って味わい尽くしてくださるためであり、その上で、主がわたしたちのために、わたしたちに先行して、本来わたしたちの受けるべき一切の誘惑に、あらかじめ「聖霊」において勝利を収め取っておいてくださるためだったのです。

「聖霊」によって荒野に導かれた主キリストは、この時、「聖霊」・父なる神の聖い霊によって、わたしたちのために「汚れた霊」「悪魔」に予め打ち勝ってくださったのです。「悪魔」に対する主キリストの勝利。これこそ、「悪霊の誘惑」の前に無力なわたしたちにとっての救いそのもの、わたしたちすべてにとっての力強い福音そのものです。主キリストの、わたしたちのための悪魔からの誘惑に対する勝利なしには、わたしたちの人生が無に帰してしまうからです。

ただし、「聖い霊」・「聖霊」による「汚れた霊」・サタンに対する完全なる勝利は、主キリストご自身の尊い自己犠牲である主の十字架とご復活、すなわち「主の過越」を通してのみ、最終的かつ完全に勝ち取られるものであることを、四旬節の始めから、わたしたちは深く心に留めておきたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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