カトリック上福岡教会

説教

四旬節第3主日(C年 2022/3/20)

ルカ13:1−9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日は、福音の語る「主キリストの山上の変容」の出来事から、出エジプトの指導者モーセと預言者エリヤが、主ご自身と、「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っておられたことをお聞きしました。ただし、最期と訳されていた言葉は、元来は、主の「過越」を意味する言葉でした。

したがって、この時主キリストは、モーセとエリヤとともに、「主の過越」、すなわち主がご受難と十字架の死を経てご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれる、主のエルサレムでの出来事の全体を、予め話し合っておられたと言うことです。

実は、この山上での出来事の直前、さらに直後にも、主キリストは、弟子たちに、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と、エルサレムでの「ご自身の過越」の予告をなさっておられました。

そしてその度に、主キリストは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と警告されておられました。その上で、今日の福音で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、主は二度も重ねてわたしたちに悔い改めをお求めになっておられました。

確かに「悔い改め」は、わたしたちの信仰の死活問題です。しかし、それはいかなることなのでしょうか。目を閉じ、俯(うつむ)いて自問自答し、自らを責めることでしょうか。そうではありません。ユダヤの言葉で「悔い改める」とは、「わたしたちの顔を神に対して向けなおす」、「神に向けて目を開く」ことです。

大切なことがあります。ルカによる福音は、主キリストの「山上の変容」後、弟子たちを伴って最後にエルサレムに上られる途上、主は弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」と、「主の祈り」をお授けくださった、と伝えていることです。改めて、「主の祈り」とは、いかなる祈りなのでしょうか。

「主の祈り」が、ごミサの中で何時祈られるのかを思い出してください。それは、「奉献文」の奉唱後、すなわち「聖変化」の直後、主キリストが、わたしたちのただ中にご聖体のお姿で、ご自身の御現存をお現わしくださった直後です。

したがって、「主の祈り」とは、主キリストご自身が、わたしたちのただ中に在って、「わたしがここにいる。もう心配しなくていい。もう俯かなくていい。わたしに顔を向けてごらん。閉じた目を開いて、わたしを見つめてごらん。わたしと一緒に祈ろう」と、わたしたちをお招きくださっておられる祈りです。

確かに、「悔い改めなければ、滅びる」とは、その通りです。俯いて神から顔を背け、神に目と心を閉ざしてしまっては、救われません。しかし、わたしたちは、むしろ最も大切な時にこそ力を失ってしまうのではないでしょうか。その時、わたしたちは俯いて目を閉じてしまいます。主キリストはそのことをよくご存知です。わたしたちの人生の悩み、苦しみをご存知だからです。主に向かって顔を上げることができずに俯き、神と人生に目を閉じてしまう、わたしたちの弱さを。

「主キリストの時」・「主キリストがエルサレムで遂げようとしておられる最期」・「主の過越」が近づく中で、主はくり返し、「悔い改める」、「目を開く」ことをわたしたちにお求めになっておられました。しかし、これは決して唐突なことではありません。主は福音の宣教の当初から、次のように仰せになっておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めて福音を信じること」「目を覚ましていること」それは、主キリストに「時が満ちる」中で、「主ご自身がエルサレムで遂げようとしておられる最期である「主の過越」、つまり主の十字架とご復活を、わたしたちがしっかりと見届けさせていただくためです。それのみがわたしたちの救いだからです。

福音の後半の「実のならないいちじくの木のたとえ」で、主がご自身を「園丁」に喩えてお語りになっておられるように、「園の主人」・唯一の裁き主であられる父なる神のみ前に、ご自身を犠牲としてまで執り成してくださる御子キリスト。

「悔い改め」「目を覚ましていること」。それは、時に重すぎる人生の苦しみの中で神に目と心を閉ざしてしまうわたしたちにとって、自分の力だけでできることではありません。主はそれを良くご存知です。だからこそ、「わたしと一緒に祈ろう」と、主はわたしたちを「主ご自身の祈り」へと切に招いてくださいます。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」わたしたちを「主の祈り」へと招かれる主は、エルサレムでの「過越」へと旅を進められます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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