説教
灰の水曜日(C年 2022/3/2)
マタイ6:1−6、16−18
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。
教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のごミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆さんの額に十字架のしるしを致します(ないし、皆さんの頭頂に灰を授けます)。
棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々がイエズスさまを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主キリストのみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。
加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主キリストが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。
主キリストは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、清い霊・聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。
灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主キリストの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがごミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。
福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主キリストのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。
主キリストがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主キリストご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。
主キリストの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。
ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。
主キリストと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。
四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主キリストの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。
この四旬節を、主キリストと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。
来たる「主キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。
実は、主日毎の、さらには日々のごミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ごミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主キリストから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。