カトリック上福岡教会

説教

四旬節第2主日(C年 2022/3/13)

ルカ9:28b−36

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」

今日の福音は、主キリストの「山上の変容」の出来事として、大切に語り継がれてきました。主は、この出来事を境としてガリラヤでの宣教を終え、弟子たちを伴いエルサレムに上る最後の旅へと発たれることになります。福音はこの出来事を通して、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

ところで、わたしたちは、人との関係が親しさを増す中で、その人の本当の姿を見失う危険もあります。主キリストの弟子たちも、主と親しく生活をさせていただく中で、ともすれば主に対する思い込みや、主への自分たちの期待や甘えが先に立ってしまうようなことがあったのではないでしょうか。

そのような弟子たちに、父なる神は、御子キリストが彼らを伴って最後にエルサレムに上られるに先立ち、彼らを主とともに高い山に登らせ、そこで主が実はいかなる方であるのか、すなわち主は神ご自身であられることを、御子の白く輝くみ姿への変容をもって、ペトロたちにお示しくださいました。

加えて、父なる神は、ペトロたち主キリストの弟子たちに、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、御子キリストを示されたとも福音は伝えていました。主は、「父なる神の御独り子であり選ばれた者」すなわち「父なる神から特別な使命を託されたただ一人のお方」であられる。ただし、神からの特別な使命とはなにか。それは、わたしたち罪人の救いです。したがって、主は、それを遂行されるに、他に代わりがない方である。しかし、主は、それをいかにして。

まさにその時、ペトロたちの目の前に、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセとともに現れて、主キリストご自身と語り合っておられるのを、ペトロたちは目撃した、と福音は伝えていました。しかし、主は、モーセとエリアとともに、何を語り合っておられたのでしょうか。

今日のルカによる福音は、それは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったことを、はっきりと伝えています。

「主キリストがエルサレムで遂げようとしておられる最期。『聖書』のことばから、わたしたちは、まずエルサレムでの主の十字架の死を思います。

確かに、主キリストは、エルサレムで十字架の死を遂げられます。しかし、ここで「最期」と訳されている言葉は、実は、聖書の元の語では「過ぎ越し」(エクソドス)と言うことばであることを、わたしたちは見逃すわけには行きません。

つまり、主キリストが、モーセとエリアとともに語りあっておられたのは、「主キリストご自身の過越」についてであった、ということです。

「主キリストの過越」。それは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主の十字架の死を含みます。しかし、十字架の死で終わりません。「主の過越」。それは、主キリストが、ご受難と十字架の死によって死に勝利を収め、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、主のエルサレムでの出来事の全体です。

その「主キリストの過越」の一切が、わたしたちのための主の救いのみ業でした。

主キリストのご受難と十字架の死は、わたしたちの罪の贖いのためです。主はわたしたちの罪の重荷の一切を、ご自身の十字架として負い抜いてくださいました。それ以外に、わたしたちが罪を赦される道はなかったからです。

しかし、主キリストのわたしたちへの愛は、罪の赦しの十字架の死によっても終わりません。主はご受難と十字架の死の後、わたしたちのために「復活」してくださいました。わたしたちにご復活の主ご自身の息である「聖霊」を吹き込んでくださるためです。汚れた霊つまり罪によって神から離れていたわたしたちが「聖霊」によって聖められ、ごミサでの主ご自身の奉献に加えられて、わたしたちを「神への聖い捧げもの」として再び神の御許に返してくださるためです。

「主キリストの過越」。それは、罪によって死んでいたわたしたちを十字架によって罪から贖い、ご復活による聖霊の注ぎによって、わたしたちに神とともに生きる命をお与えくださるための、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

主キリストの過越は主の愛によるわたしたちの死から命への過越でもあります。これが、主がエルサレムでわたしたちのために成し遂げてくださった救いです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ゆりのイラスト

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