説教
年間第7主日(C年 2022/2/20)
ルカ6:27−38
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
主キリストは、今日の福音の内にこのように仰せになっておられました。これを聞いて、皆さんはどのように思われたでしょうか。主キリストは、端(はな)から不可能な要求をわたしたちにしておられるのでしょうか。
先の主日から、わたしたちは、ルカが伝える、主の祝福のみことばに始まる説教からお聞きしています。これは、マタイによる福音の伝える主キリストの「山上の説教」の並行箇所ですが、マタイは次のような主のおことばが伝えています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)
ここで主キリストが「律法や預言者」と言われるのは、モーセと後の預言者たちを通して神がご自分の民に語られた「神のみことば」のことです。かつて、モーセは「神のみことば」をお聞きするために「山」に上りました。マタイの伝える主の「山上の説教」。主も、「山」に上られます。ただし、主はモーセと同じではありません。
人となられた「神のみことば」である主キリストは、ご自身わたしたちにおことばをくださいます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と主は仰せでした。主は「律法と預言者」つまり「神のみことば」を成就するために来てくださいました。どこに。わたしたちに。どのようにして。「神のみことば」であるご自身そのものを、わたしたちにお与えくださることによって。
そうであれば、主キリストの「みことば」にお聞きすることと、律法学者の「教え」を聞くこととは、まったく別のことです。今日の福音で、主は次のように仰せでした。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。…求める者には与えなさい。…あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
これは、律法学者の「教え」を遥かに超えています。律法学者は、「隣人を愛し、敵を憎め」と「教え」ました。これに対し主キリストは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰せです。ただし、注意したいことがあります。主キリストが仰ったことは、すべて主が、すでにご自身でなさったことです。主ご自身の内に、すでに成就しておられることです。同じことを、わたしたちに成就させてくださるために。
そうであれば、わたしたちにとって主キリスト(福音)に聞くことは、「神のみことばである主」ご自身を、感謝していただくことに他なりません。それがごミサです。
「神のみことば」と申します。創造主なる神にとって、「みことばをお語りになられるる」ことと、「語られたことをその通りに創造される」ことは、全く同じことです。旧約の冒頭に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」といわれています。
そして、「人となられた神のみことば」である主キリストは、この「神のみことば」そのものです。そうであれば、主に聞くとは、「神のみことばであられる主キリスト」をいただいて、主にすでに成就しておられる「神のみことば」の通り、わたしたちが新しく創造され、造り変えられてゆくことです。ただし、それはどのように、でしょうか。
「神の子」である主キリストの似姿に。「主のみことば」をいただいて、わたしたちが「主キリストの似姿」すなわち「主キリストと同じ神の子」「主の兄弟姉妹」に、造り変えられてゆく。今日の福音で、主は仰せでした。主が、わたしたちにお語りくださるのは、わたしたちが「神の子となるためである」。それがわたしたちの救いです。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
この主キリストのみことばを聞くわたしたちに、主がお求めになっておられることはただ一つです。「おことば通り、この身になりますように」と、主のみことば・主ご自身にわたしたちをお委ねさせていただくこと、すなわち聖母マリアさまの信仰です。聖母マリアさまのように、主キリストのみことば・主ご自身をいただいて、主によって、主の似姿に造り変えられて行くわたし自身を、喜んで受け入れることです。
皆さんは、律法学者から教えを聞くように、主キリストから教訓を聞くためにごミサに来られたのでしょうか。そうではありません。主のみことば、つまり主ご自身をいただいて「神の子」である主の似姿とされるために、ごミサに来ておられるのです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。