説教
年間第4主日(C年 2022/1/30)
ルカ4:21−30
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
先の主日には、ナザレの村での主キリストの福音宣教のご様子からお聞きしました。今日のルカによる福音は、その続きです。
少し遡って、ルカによる福音は、主キリストが少年・青年時代を過されたナザレでのご様子を、「両親に仕えてお暮しになった」と、短く美しいことばで伝えていました。ヨゼフさまから仕事を学ばれ、また母マリアさまを助けて、お二人とともに汗を流して働いておられた主キリストのお姿が目に見えるようです。
しかし、主キリストが、故郷ナザレを後にされる時が来ました。洗礼者ヨハネから民衆とともに洗礼を受け、父なる神の「霊」に満たされて福音宣教をお始めになられるためです。洗礼を受けられて後、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」と、ルカによる福音は伝えていました。
さて、ガリラヤ湖畔での福音宣教に続き、主キリストはナザレの村をお訪ねになられます。ナザレには、かつて主と生活と労苦をともにした村人たちが、恐らくは期待といささかの戸惑いとともに、ある日突然村を後にした、彼を迎えます。
そのナザレでの安息日。村の会堂にお入りになられた御子キリストご自身、預言者イザヤを通して語られた父なる神のみことばを巻き物から朗読された後、今日、ルカが伝えるように「福音」を宣言されたことは、先の主日にもお聞きした通りです。
「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
この時、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深いことばに驚」きつつも、戸惑いを隠せず「この人はヨセフの子ではないか」と呟いたとルカは正直に伝えます。
ところで、マタイによる福音は、主キリストの福音宣教に接したガリラヤ湖畔の人々の様子を、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とし、その時彼らは、はっきりと「主の権威」を認めたと伝えた上で、しかし、ナザレの人々はそうではなかったと伝えます。しかも詳細に。
マタイによる福音によれば、確かにナザレの人々も、最初はガリラヤ湖畔の人々のように、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」と、主キリストのおことばに深く心を動かされたものの、直ぐに心をひるがえして、「『この人は、大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、ナザレの人々はイエスにつまずいた」。
主キリストに「つまずいた」。残念ながら、主をよく知っていたつもりのナザレの人々は、イエズスさまに主キリストの権威を認めようとしませんでした。しかし、それはいかなることなのでしょうか。
ナザレの人々は、今や明らかに主キリストの内に働かれる聖霊を認めず、したがって謙遜に主から聖霊を受けて、主を神の御子、彼らの待ち望んで来た救い主キリストとして信じ受け入れさせていただくことができなかったということです。
その時主キリストは、「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と仰せになられた、と今日のルカは伝えていました。同じ主の故郷での体験を、マルコは、主は「人々の不信仰に驚かれた」と結んでいます。
故郷ナザレで主キリストが体験された出来事を伝えるすべての福音が一致して語り示しているのは、主キリストの権威、聖霊の働きそして信仰。この三つです。ガリラヤの人々は、イエズスさまに律法学者には無い主キリストの権威を認めました。それは彼らが、主の内に働かれる聖霊を認め、主から聖霊を受けて、イエズスさまを彼らの救い主キリストとして信じ受け入れたということです。
ナザレの人々は、イエズスさまに主キリストの権威を認めることを拒みました。彼らは、主が聖霊を与えることがおできになる神ご自身であることを受け入れず、したがって、主から聖霊を受けることを拒んだのです。それを、主は、不信仰と言われます。主から聖霊を受けさせていただく。それが、信仰だからです。
しかし、わたしたちが主キリストから聖霊をいただく時、聖霊はわたしたちの内から働き、わたしたちを神の子としてくださいます。その聖霊の恵みの奇跡を感謝して受けさせていただく。それが信仰です。その聖霊をご復活の主ご自身からみことばとご聖体において拝受させていただく。それがごミサです。
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。