カトリック上福岡教会

説教

待降節第4主日(A年 2022/12/18)

マタイ1:18−24

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と、今日、待降節最後の主日の福音は語り始めていました。

待降節最後の主日を含む降誕日前の八日間(12月17日から24日の「晩の祈り」の時まで)を、アドベント・オクターブと呼びます。その初日12月17日のミサでは、この特別な期間の黙想の主題を示唆して、福音は、マタイ冒頭の「イエス・キリスト」の系図から、旧約は、その系図中とくに、後に神から「イスラエル」の名を与えられる父祖「ヤコブの祝福」の言葉を創世記から朗読しました。

ヤコブは、アブラハムの子であるイサクの子です。彼の名「イスラエル」は、ヤコブが兄エサウとの和解の旅の途上、ヤボク川の渡しで神の天使と闘った時、み使いから、「お前の名はもはやヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と闘い、人と闘って勝ったからである」と、言われたことによります。

ここで、「イスラエル」とは「神の勝利者」の意味です。ただし、「神の勝利者」とは、実際は誰のことなのでしょうか。ヤコブは、神の天使との格闘の後、彼自身は「勝利者」ではないことを明らかに自覚して、次のように告白しています。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、まだ命は助かっている。」

事実、ヤコブが闘った神のみ使いは、彼の腿の関節を打ったのみで、彼の命は助けています。神は、この時ヤコブを、たとえ無知とはいえ神の天使と、否、神ご自身と争った彼の罪ゆえに彼を滅ぼすことをなさらなかったばかりか、後にはヤコブを祝福の基としてさえお用いになります。(創世記49:1-28)

この不思議な物語を通して、ヤコブのように神を神と弁えず神と争うような愚かなわたしたちに対しても、主なる神は、わたしたちの罪の当然の報いである死に代えて赦しを、さらに、罪赦されたわたしたちを、多くの人に命を与える祝福の基としてさえお用いくださるという神のご意志が示されているのではないでしょうか。

これがヤコブ・イスラエルを含む主キリストの系図が先取りして告知し、主キリストの十字架と復活によってわたしたちすべてに成就される「神の救い」です。アドベント・オクターブは、このように、神の救いの歴史の内に隠され、主キリストによってわたしたち一人ひとりに成就する、この神の救いの秘儀を黙想する時です。

さて待降節第4主日の今日、マタイによる福音において、「イエス・キリストの誕生の次第」は次のように語られていました。すなわち、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」その時、困惑していたヨセフの夢に、主の天使が現れ次のように告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」み使いは、その上でさらにヨセフに次のように告げました。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエス「神の救い」の意)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

注意したいのは、ここで、救い主キリストは、「ご自分の民(すなわちわたしたち)罪から救うと言われます。たんにわたしたちの「罪を赦す」とは言われていません。先のヤコブの物語が語り示していたのは、主なる神はわたしたちの罪を赦されるだけはなく、さらに、赦されたわたしたちを神の祝福の基としてさえお用いくださるということでした。主キリストは、十字架の苦しみを経て復活の栄光に過ぎ越して行かれるご自身の過ぎ越しに、わたしたちを伴ってくださるのです。

わたしたちの救いは、主キリストの十字架による罪の赦しに終始しません。罪赦されたわたしたちに、さらに主の復活によって成就する神のみ業があります。その全体が「神の救い」(すなわち、イエス)です。

続けてマタイによる福音は「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが成就するためであった」と語った上で、今日の第一朗読の預言者イザヤを通して告げられた、主の次のおことばを引用します。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(イザヤ7:14)

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、マリアを迎え入れた」と福音は伝えます。ヨセフさまのように、わたしたちも、母マリアさまを、心を込めてお迎えさせていただきたいと願います。母マリアさまをお迎えする。それが、母マリアさまからお生まれになる御子キリストをお迎えする、ただ一つの道です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

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